つまりこの映画では、ほとんどの場面で、鳥や蛙や蝉などの生き物の鳴き声、あるいは波や風といった自然の音が響いている。自然の営みは平時でも戦時でも変わらない。主人公たちの周りにはそんな自然がある。しかし、戦争に翻弄された彼らは、自然から切り離されてしまっているのだ。
アメリカの異才テレンス・マリックは、『シン・レッド・ライン』のように戦争を題材にした作品を撮っても、人間のドラマを描くだけではなく、すべてが自然のなかで起こっていることを決して忘れない。新藤監督もその長いキャリアのなかで、自然と人間を見つめる独自の感性を培ってきた。実際この映画には、彼の過去の作品を想起させるような要素が埋め込まれている。
たとえば、友子の義父が発作を起こして亡くなる場面だ。そこでは、音響だけで表現される生き物の存在を集約するかのように、茅葺屋根にとまった鴉が映し出される。この鴉の姿を見ながら筆者は、『ふくろう』(03)のことを思い出した。この映画では、ふくろうという他者の存在を通して、荒廃した開拓村でサバイバルを繰り広げる母と娘の姿が描き出される。新藤監督は、そのふくろうについて以下のように語っている。
「この映画に出てくるふくろうは外にいる。でも屋根の隣の森の木にいて、ふくろうが全部見ている。ふくろうという客観の目で、ずっとこれを見ていくというようにやろうと思ったわけです。要するにこのドラマを見て判断を下すものが、人間ではなくて鳥だった、ということです」
しかし、『一枚のハガキ』と過去の作品の接点として最も印象に残るのは、やはり水汲みのエピソードだろう。友子の家には水道がない。だから彼女は川まで降りていって、桶に水を汲み、天秤棒に下げて坂を登り、家まで運んでこなければならない。その姿は新藤監督の代表作『裸の島』(60)を思い出させる。この映画に登場する夫婦は、小島で農業を営んでいるが、そこには水もなく、土地も乾いている。だから毎日、早朝から小舟で大きな島に行き、水を汲んで島に戻り、天秤棒を担いで斜面を登り、畑に水をやる。
この『裸の島』との繋がりは、『一枚のハガキ』の世界をより印象深いものにする。『裸の島』を撮るとき、新藤監督が拠点としていた独立プロ「近代映画協会」は借金がかさみ、解散寸前だった。そこでどうせなら映画の原点に立ち返り、自由な発想で映画作りを楽しもうとして作ったのがこの映画だった。結局、『裸の島』は大きな成功を収め、プロダクションも生き延びることになったが、新藤監督の最後の映画にもそんな姿勢が刻み込まれている。
さらに、映画のテーマも継承されている。『裸の島』の夫婦は、どんなに辛いことがあっても、水を汲み、乾いた土地に注ぎ、生きていこうとする。一方、一枚のハガキに導かれて出会った啓太と友子は、それぞれに重い過去を背負い、自然から遠ざけられている。だからブラジルに旅立とうとする。しかし、家やハガキが灰になったときにそこに自然を見出し、土地を耕し、麦畑を切り拓いていく。
新藤監督が描き出すのは戦争の本質だけではない。映画の最初から響いていた自然の声が最後に主人公たちに届き、人間と自然がひとつになるところに、深い感動があるのだ。 |