『地球で最後のふたり』にもそういうところがあったが、『インビジブル・ウェーブ』には、村上春樹の小説に通じる世界がある。ラッタナルアーンもまた、次第に細部が際立ち、意味を持つようなミニマルな表現を通して、主人公の現実の微妙な揺らぎや主人公と世界の距離の変化を描き出していく。彼は実際に、村上の小説をけっこう読んでいるらしい。そして、村上作品のなかでは、「『羊をめぐる冒険』みたいに奇抜すぎるものよりも、『国境の南、太陽の西』のような純粋なラブストーリーの方が好き」なのだという。
ラッタナルアーンが好きな作品としてタイトルを挙げたその『国境の南、太陽の西』と『インビジブル・ウェーブ』に、共通する要素や視点を見出すことは、それほど難しいことではない。『国境の南、太陽の西』のなかには、現実についてこのような記述がある。「たとえば何かの出来事が現実であることを証明する現実がある。何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。僕らが認識していると思っている事実がどこまでそのままの事実であって、どこからが「我々が事実であると認識している事実」なのかを識別することは多くの場合不可能であるようにさえ思える」
『インビジブル・ウェーブ』のキョウジは、旅のなかで、どこまでがそのままの事実なのかわからなくなるような出来事に翻弄され、現実が揺らいでいく。さらに、『国境の南、太陽の西』の主人公は、物語の終盤でこのように自分を振り返る。「僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。(中略)でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった」
キョウジもまた、奇妙な旅の果てに、そんなことを感じとっているように見える。ラッタナルアーンは、彼の心境を空間によって巧みに表現している。彼の旅のなかで際立つのは、開放的な風景ではなく、船やホテル、その迷路のような通路や閉塞感を覚えるような部屋なのだ。だから、旅に出たのに、環境が変わったようには見えない。彼は、出口のない空間のなかで、堂々巡りしているのだ。
だが、ラッタナルアーンが、この映画を作るうえで意識していたのは、村上春樹ではなく、クリント・イーストウッドだった。彼はこのように語っている。「私が作りたかったのは、何かもっとクリント・イーストウッド的な映画でした。彼が出演した古い作品ではなく、最近の監督作の方です」
監督としてのイーストウッドは、ある時期から現在に至るまでずっとひとつのテーマを追求しつづけている。『真夜中のサバナ』に登場する女祈祷師ミネルヴァのある台詞には、そのテーマが明確に表れている。彼女は、このように語る。「死者と語り合わねば、生者を理解できない」。イーストウッドは、映画のなかでそれを実践しつづけている。彼の作品には、死者の声に耳を傾け、死者に導かれていくドラマがあり、観客である私たちは、死を通して、生を見つめなおしていく。彼の最新作である『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』では、そのテーマが極められているといってもよいだろう。
この『インビジブル・ウェーブ』も、死を通して生を見つめなおす作品だが、これはもちろん借り物のテーマではない。ラッタナルアーンは、彼独自の世界を掘り下げ、そんな視点を切り開いてきた。彼が監督した『シックスティナイン』のエンディングには、トルーマン・カポーティの『カメレオンのための音楽』から、こんな言葉が引用されている。「神様が贈り物をくださる時は、同時にムチもお与えになるものだ」。彼の作品には常に、因果応報ともいうべき世界や贖罪の物語がある。だが、そうした世界や物語は、『地球で最後のふたり』と『インビジブル・ウェーブ』のなかで、確実に変化している。
『地球で最後のふたり』の主人公ケンジは、自分が犯した罪を償わなければならない運命にあるように見える。しかし、彼の内面的な世界からは、贖罪とは異なるもうひとつの物語が浮かび上がってくる。彼の人生は、図書館を思わせる彼の部屋が暗示するように、完結してしまっていた。だから彼は、常に自殺することばかりを考えていた。しかし、ニッドの死をきっかけにノイと出会い、彼女と過ごすうちに、あるいは、ノイと死者であるニッドと空間を共有することによって、未完の生に目覚めていくのだ。
そして、この『インビジブル・ウェーブ』もまた、贖罪の物語に見えるが、キョウジの内面には、実に複雑な心の動きがあり、それは、彼を取り巻く世界に対する認識の変化に繋がっていく。この映画では、冒頭と終盤のディナーが巧妙に対置されている。そのふたつのディナーは、まず何よりも、ボスのウィワットとキョウジの特殊な関係を表現するためにある。彼らの関係は、単なる雇用者と従業員のそれとは違う。
ニューヨークの超有名店シェフ、アンソニー・ボーデインが、自身のキャリアとレストラン・ビジネスの内幕を綴った『キッチン・コンフィデンシャル』には、理想的なコックについてこんな記述がある。「あらゆる部署を経験し、レシピをすべて諳んじ、レストランの隅から隅まで知りつくし、そしてなにより、シェフのやり方を誰よりもよく心得ているコックはかけがえのない存在だ」「とくにシェフとスーシェフの関係は密接なので、似たような環境で育ったり、共通の世界観の持ち主だったりすれば都合がいい。なにしろ、起きている時間のほとんどを一緒に過ごす相手なのだから」
冒頭のディナーで、セイコは、キョウジのの話し方に反応して、「旦那と同じセリフ、長く一緒に仕事しすぎたんじゃないの」と語る。さらに、キョウジとボスを混同して、「ボスの言うことなら素直に聞きます」と口走ったりもする。キョウジは、ボスとあまりにも長く過ごし、分身のような存在になっている。そして、ボスに忠実であることと、世界観を共有することとの狭間で、矛盾を抱え込み、罪を犯さなければならなくなった。
一方、終盤のディナーにも矛盾が生まれるが、こちらは厳密には三角関係ではない。ニドの存在は重要だ。なぜなら、この映画では、父親というものにさり気なく関心が向けられているからだ。セイコは、キョウジの部屋に飾られた写真を見ながら、彼が父親と似ていないと語る。ノイと出会ったキョウジは、なぜかニドの面倒を見ることになる(それは彼がボスの分身であるからだといえるかもしれない)。船で働くバーテンダーは、キョウジに彼の父親のことを尋ねる。そして、ニドを抱えたボスと向き合うキョウジのなかで、何かが決定的に変化するのだ。
ラッタナルアーンは、それがどんな変化であるのかを、暗示的に表現している。冒頭のディナーの細部は、キョウジがワインに毒を盛ったことを物語る。それ以来、彼は、アルコールを避けるようになり、いつもミルクを飲んでいる。しかし、終盤のディナーでは、ワインを勧められたキョウジが、それに応じるのだ。
キョウジの変化とは、単に罪を償うことではない。それは、海と関係しているようにも見える。彼は、マカオと香港の間を何度も往復し、そしてプーケットに旅する。彼のそばにはいつも海があり、さらには、眠りのなかで海を象徴するマリアの声に導かれながらも、海と距離を置いてきた。しかし、そんな彼は最後に、海が象徴するような、身近にあるもうひとつの世界を受け入れようとする。それは、生と死の境界を越えたある種の解放を意味しているのだ。 |