そんな変化は、この映画に描かれるふた組の親子の関係にも反映されているように見える。フランソワや隣家を仕切る母親エディットは大地に根を下ろして生きてきた。これに対して、土地に縛られることを嫌ったシャルリは、家を飛び出し、業界に影響力を持つワイン評論家として不動の地位を築いた。エディットの娘ブランシュは、アメリカ人の同業者をパートナーに選び、土地を引き継いで守っていくために「世界中で学んだ」と語る。その考え方は、畑に一生を捧げている母親とは違う。
このドラマでは土地が鍵を握っているが、土地をテロワールと置き換えることもできる。その言葉は映画の前半、シャルリのなかに祖父の記憶がよみがえるところで出てくる。祖父はまだ少年だったシャルリに、この言葉を使って畑のランクの違いを説明していた。評論家として成功を収めたシャルリが、実家に戻ってワイン造りに乗り出すのは、自身が土にまみれ、テロワールを見極められなかったことが心残りになっていたからでもある。
ちなみに、ワイン評論家マット・クレイマーの『ブルゴーニュワインがわかる』では、以下のような表現によって、ブルゴーニュとテロワールの結びつきが強調されている。「『テロワール』という考えかたはブルゴーニュだけのものではないが、これをあますことなく体現するのは、この地をおいてほかにはない」
これは、シャルリが自ら土地を耕すことによって、テロワールを確認していく物語と見ることもできる。もちろんそれは容易なことではない。興味深いのは、彼がシートを使って畑を暴風雨から守ろうとするエピソードだ。評論家としての彼は、なんでも自分で決めることができたが、自然を思い通りにすることはできない。彼はそんな経験を経てエディットの境地に近づいていく。彼女は、畑が求めるものを与えるが、一生を捧げても畑はそれ以上を要求すると語る。つまり、畑や自然が主であって、人はその声を聞き、従うしかないのだ。
そしてもう1本、この映画と対比してみたいのが、『パリ空港の人々』(96)や『ミックマック』(09)の製作者としても知られるジル・ルグランが監督した『Tu seras mon fils(英題:You Will Be My Son)』(11)だ。
主人公は、ボルドーのサンテミリオンで11代も続くシャトーを営むポール。彼とブドウ畑の管理人フランソワは信頼関係で結ばれ、40年にわたってワインを造り続けてきたが、そのフランソワが癌で余命半年と宣告される。ポールは新たなパートナーを見つけ出さなければならない。そこで自分の息子マルタンに任せるのが自然な流れだが、彼は息子を軽蔑している。味覚や感性をまったく信用していないのだ。そんなとき、フランソワの息子で、マルタンの幼なじみでもあるフィリップが、父親の病を知ってアメリカから帰国する。カリフォルニアでワイン造りに従事してきた彼は、豊かな経験と感性を備えていた。そんなフィリップに魅了されたポールは、彼を養子にしようと画策する。
このように書くと、なぜボルドーを舞台にした作品をここで取り上げるのか不思議に思われるかもしれない。実はルグラン監督はこの映画をブルゴーニュで撮るつもりだったが、望ましいロケ地が見つからず、ボルドーに変更した。そんな事情を踏まえて2作品を対比してみると、その共通点から監督たちがなぜブルゴーニュに惹かれるのかわかるのではないか。ブルゴーニュであれば、たとえ時代が現代であっても、余計な脚色を施すことなくシェイクスピアに通じる魅力的な物語を語ることができるのだ。
『ブルゴーニュで会いましょう』では、土地を体現するテロワールとシェイクスピア的な世界が巧みに結びつけられている。そこにはブルゴーニュでなければ描けないドラマがある。 |