クレイグ・ブリュワーは、メンフィスに暮らし、メンフィスで映画を撮り、アメリカ南部にこだわるリージョナル・フィルムメイキング≠実践している。
彼の劇場用長編デビュー作『ハッスル&フロウ』 には、その独自のスタンスがはっきりと表れている。ラッパーになる夢を取り戻し、どん底から這い上がろうとするポン引きの姿を描いたこの映画では、デモテープが作られていく過程で、メンフィスの底辺の生活や土地と人間の繋がりが浮き彫りにされていく。そして、主人公と彼が抱える娼婦たち、彼の幼なじみや教会で演奏する白人の若者の間に、音楽を通して新たな結束が生まれ、そのすべてがデモテープに注ぎ込まれる。
それは、ブリュワーの映画作りに置き換えることもできるだろう。彼は、そんなドラマを通して、黒人と白人、男と女、あるいは刑務所の囚人と看守を繋ぐ南部の土壌や精神を掘り下げ、南部のステレオタイプなイメージを拭い去っていくのだ。
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メンフィスの田舎町を舞台にした彼の新作『ブラック・スネーク・モーン』は、ブラインド・レモン・ジェファーソンの曲からタイトルが付けられているように、ブルースが鍵を握る。この映画もまた、まさしく南部における人間の繋がりを描いているが、前作のラップをブルースに置き換えて、似たような物語を繰り返す作品ではない。この映画では、南部のステレオタイプなイメージを拭い去るのではなく、むしろそれを逆手に取ることによって、興味深い状況を作り上げていく。
かつてブルースマンだったラザラスは、今では農業を営み、熱心に教会に通い、まっとうな生活を送っているつもりだった。ところが、妻が彼の弟と関係し、家を出てしまう。妻に対する怒りがおさまらない彼は、顔に傷を負って半裸のまま家のそばに放置されていた女レイを助ける。彼女は、幼少時の虐待が原因でセックス依存症になっていた。ラザラスは、そんな彼女の腰に太い鎖を巻きつけ、ラジエーターに括り付ける。
この映画のオープニングでは、露出度の高いファッションで田舎道を行くレイの背後から、巨大なトラクターが彼女に迫り、パルプなテイストのタイトルが浮かび上がる。そして、先述したように黒人の大男ラザラスが、小柄な白人の女レイを鎖で拘束する。そうしたイメージは、この映画がセックスプロイテーションやブラックスプロイテーション・フィルムであるかのような印象を与える。ところが、実際のドラマは、その表層的なイメージを単純に裏切ってみせるだけではない。
ラザラスとレイは、どちらも相手が見えているわけではない。それは、他人ということではない。ラザラスは、厚い信仰心と妻に対する殺意すら抱く激しい感情に引き裂かれかけている。恋人が入隊し、ひとりになったレイは、甦ってくる虐待の記憶や恐怖から逃れるために、一時の快楽に身を委ねようとする。ふたりは、相手を見る以前に、それぞれの不安や恐怖、衝動に深く囚われている。そんな彼らの心理が、複雑なドラマを生み出すことになるのだ。
レイのなかでは、ラザラスの存在が、記憶のなかで自分に迫る影や、ひとりにされたときに救いを求める黒人の売人に重なる。だからいきなり彼にキスをする。予想外の出来事に動転した彼は、家の外まで逃げ、聖書も放り出して腰を抜かす。ラザラスは、そんな罪深き女を妻に重ね、神の啓示を得たかのように鎖で拘束し、更生させようとする。レイは最初は必死に抵抗するが、それが叶わないとなると、男に見立てた鎖に巻かれることで、迫りくる影から逃れようとする。