そして、もうひとつの共通点といえるのが、“タブロイド”や“ゴシップ”と呼ばれるものへの目配せだ。
バーンがタブロイド新聞から拾い集めたおかしな実話をもとにした『トゥルー・ストーリーズ』には、ベッドから出ることなくテレビ漬けの日々を送る女や実は自分がエルヴィスの曲を書いたと吹聴する女、 子供たちを通してしか対話しない夫婦などが登場する。だからドラマはシュールに見える。
しかし、そうしたドラマとハイテク産業や巨大なショッピングモール、教会といった環境が結びついていくとき、アメリカのフロンティア、“エッジ・シティ”と呼ばれる新しい都市形態の日常がリアルに浮かび上がってくる(エッジ・シティについては関連リンク参照のこと)。
一方、『バーニー』では、事件がドラマ化されているだけではない。実際のバーニーとマージョリーを知る住民たちにインタビューした映像がたっぷりと盛り込まれている。そんなドラマとインタビューの組み合わせはシュールに見える。ちなみに、リンクレイターは、このアプローチについてプレスで以下のように語っている。
「この作品は、物語の大部分が町の人々の説明によって語られ、彼らの事件に対する認識や、バーニーとマージョリーへの感情に基づいて形作られています。つまり町の人々が映画の語り部なのです。ゴシップ的な視点で語られる映画など、これまで観たことがありませんが、今回の場合はそれがこの町と住人たちの全てを明らかにする上で、ふさわしいテクニックだと思いました。それに、住民たちのなんとユニークなこと!テキサス東部の町民が、ディープな南部独特のゆっくりした話し方で語るなんて、他にはない物語の伝え方です」
リンクレイターが関心を持っているのは、必ずしも事件やその真相ではなく地域性だ。この映画の前半部で、登場人物のひとりがこのようなことを語る。テキサス州は地域ごとにまったく趣きが異なり、五つの州と言ってもいい。西部は広大な平地で大牧場が多い。北部じゃダラスの気取り屋がベンツを乗り回してる。ヒューストン辺りは“発ガン性海岸”。サンアントニオの南部はテキサス流メキシコがある。中部にあるのは“オースティン人民共和国”で、スネ毛の女とリベラルな連中の街さ。
だが、この映画が醸し出す地域性に引き込まれると、そうした分類すら表層的なものに思えてくる。おそらくテレビ番組のように、ただカーセージという田舎町を紹介しようとするだけでは、そんな空気を引き出すことはできない。事件をめぐるゴシップ的な語りのなかにこそ、独特でリアルな地域性が潜んでいるのだ。
もちろん、リンクレイターがテキサス出身で、テキサスという世界にこだわりを持っていなければ、独特の地域性を感知することはできなかっただろう。それは、バーンが炙り出した新しいフロンティアとは対照的なもうひとつのテキサスだといえる。 |