『ブコバルに手紙は届かない』『パーフェクト・サークル』『ボスニア!』『ウェルカム・トゥ・サラエボ』などボスニア紛争を題材にした映画が日本でも次々に公開されている。
そのなかでこのあまりにも悲劇的な出来事の重みに押されてしまうことなく、映画として筆者が最も興味をそそられるのは、『ウェルカム〜』とそして今回公開される本作品だ。
しかしこの違いは必ずしも映画の優劣を意味するわけではない。この悲劇にあまりにも近い人々が現時点で映画を作ろうとすれば、その近さが無意識のうちに映画に限界を設定しがちになるのに対して、
2作には悲劇を映画に昇華するだけの距離があるということだ。しかもこの2作には、その距離ゆえにある程度共通する視点があり、対比してみるといっそう興味深く思えてくる。
『ウェルカム〜』に登場するアメリカ人ジャーナリストは、犠牲になるのがムスリムではなくキリスト教徒であれば世界の反応はまったく違ったものになっていると語る。
それゆえジャーナリストたちは、世界の関心を引くために、現実をドラマティックなものに演出し、より悲惨な状況を追い求めることを余儀なくされる。
『エグザイル〜』にはタヒア監督のこんなコメントがある。
「各国のマスメディアはここ(国立図書館)をムスリム人の砦だと報道。その方が視聴者にウケる」。しかし歴史をさかのぼると伝統的にボスニアが異教に寛容であり、この図書館は東西文化の融合の象徴であったことを彼は強調する。
そんな歪んだ現実のなかで、『ウェルカム〜』では、子供たちの置かれた現状をありのままに伝えようとする主人公がジャーナリストとして存在することの意味を失い、
孤児の少女とともに完全に孤立した個人の立場から現実に対峙していくところに、ウィンターボトムならではの作家性が浮かび上がる。
『エグザイル〜』もまた対極の立場で孤立したふたりの個人の物語といえる。
この映画を作っているのは、亡命者≠ニいう複雑な立場で亡き母親の街を訪れたボスニア系のオーストラリア人タヒアと、サラエヴォに生まれ紛争の地獄を生き抜いたアルマのふたりである。そんな彼らが、
あくまでそこに残る他の住人たちとの出会いを通して悲劇を共有する過程で、それぞれのなかにある後ろめたさや軽蔑の感情が消失し、未来に向かって共鳴していくとき、この作品はボスニア紛争が遠い国の人間をも引き込むような魅力を放ちだすのだ。 |