ウィリアム・ギブスンの詩の一節をタイトルにした福島拓哉監督の『アワ・ブリーフ・エタニティ』では、“エマノン”と呼ばれる新型ウイルスが東京に広がっていく。それは、致死率で危険性を判定するようなウイルスではない。
感染した人間は突然倒れるが、二、三日のうちには意識を取り戻す。一見すると発症以前となにも変わってないように見えるが、大切なものの記憶が失われている。だからこの映画は、過酷なサバイバルのなかで人間の本性が露になっていくような作品にはならない。
エマノンは、生死をめぐる極限状況を生み出すかわりに、個人の内面や他者との関係に波紋を投げかけていく。大切な記憶を失うことの意味や影響は、その人物の現在の立場によって異なる。この映画の前半部分では、ふたつのケースが対置され、その波紋の違いが明確にされている。
まず主人公のひとり、ミオが路上で倒れる。だが、数日後に意識を取り戻した彼女とその恋人アリタの同棲生活に変化はない。そんな彼女に何かが起こったことを気づかせるのは、もうひとりの主人公であるテルだ。
無為な日を送るテルは、かつて一緒に暮らしたミオを町で見かけ、声をかける。だがミオは彼のことをまったく覚えていなかった。その後、謎の男と出会い、新型ウイルスのことを耳にしたテルは、ミオを馴染みの店に案内する。彼女は、店主のイサオや彼の恋人のカオリとの再会を喜ぶ。と同時に、テルに関する記憶だけが抜け落ちていることが明らかになる。
ところが、そこで今度は店主のイサオが倒れる。彼の場合は、変化はすぐに明確になる。彼が失っていたのは、いっしょに暮らすカオリに関する記憶だったからだ。
このふたつのケースは、私たちに様々なことを想像させる。ミオは、大切な記憶が失われても何も変わることがなかったアリタとの生活のことをどう考えるのか。ミオと再会するだけではなく、図らずもその気持ちまで知ることになったテルは、彼女に対してどのような感情を抱くのか。意地悪な想像を付け加えるなら、もしカオリも発症した場合、イサオに関する記憶が失われるとは限らない。
だが、福島監督が関心を持っているのは、ウイルスが男女の関係に及ぼす間接的な影響だけではない。彼はウイルスをきっかけとして、個人と記憶の関係そのものを掘り下げている。
筆者が作家のカズオ・イシグロにインタビューしたとき、彼は記憶を作品のテーマとすることについてこのように語っていた。 |