そこで注目したいのが、アメリカがこれまでどのように共通の夢を生きてきたのかということだ。本書のなかに「戦争は国内の画一性に祝杯をあげる季節になる」とか「戦争はアメリカ精神がたるんできたと思われる時分に起きては、その緩んだたがを締め直した」という記述があるように、アメリカは外部に敵を見出すことによって結束してきた。本書によれば<星条旗よ永遠なれ(スター・スパングルド・バナー)>は、第一次大戦中に陸軍によって国歌として歌いだされたのだという。但し、惨めな敗北を喫したヴェトナム戦争は例外だが、その後のレーガン政権はソ連との対立構造を煽ることで、外部の敵に支えられた共通の夢を復活させた。しかしその冷戦もいまは終わりを告げている。
筆者は今回のテロ事件には、もうひとつの悲劇があると思う。冷戦も終わり、湾岸戦争も短期間で終結し、もはや大々的な戦争は起こらないという考えが、アメリカ人のなかには確実に浸透しつつあった。だからこそアメリカは内向きになり、内部に敵を見出し、文化戦争が激化したのだ。それは分裂の危機をはらむ深刻な戦争だが、それでも共通性を探求する上で、外部の敵に支えられるのではない、新たな段階に踏みだすための可能性は秘めていたはずだ。
ところが、テロで外部に新たな敵を見出したことで、すべては逆戻りしてしまい、いまでは根深い問題を先送りしようとしている。もう一歩踏み込んだ言い方をすれば、単に先送りするのではなく、アメリカ型市場主義をなし崩し的にグローバリズムにしてしまうことで、問題を消し去り、表層的で空虚な共通の夢に置き換えようとさえしている。いま愛国心に訴える音楽は、そんなアメリカの選択を象徴してもいるのだ。
それでは<イマジン>はといえば、この曲もまたアメリカの現状と照らし合わせてみると、平和を象徴するだけではない、もっと深い意味を読み取ることができる。それを明確にするためには、まず“アメリカの夢”の本質について考えてみる必要がある。アメリカ人は現実世界に共通性を求められると、矛盾が露呈するために、アメリカの夢=共通の夢を必要とする。『アメリカの文化戦争』には、国家と夢を同一視することについて、「アメリカは未だ存在せず、目下のところ人間が集団で抱く期待である」という記述がある。
そんなアメリカの夢と<イマジン>を対比してみれば、想像力と現実がまったく逆転していることがわかるだろう。<イマジン>は現実を踏まえたうえで、理想的な世界を想像しようとする。しかもそこには、「Imagine there’s no countries」や「Imagine no possessions」というような詞がある。アメリカは、現実ではなく、この先に開けるはずの夢のなかに国家があり、冷戦時代には外部の敵に対して、所有し消費することが共通の夢の顕在化であったのに対して、<イマジン>は、外部の敵やグローバリズムを否定するかのように、国家や財産のない世界を想像してみようと語りかけてくるのだ。つまり<イマジン>は、アメリカ人にとって、国歌や<ゴッド・ブレス・アメリカ>とは対極にある重い踏絵ともなりうるのである。
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