Jimmy Corrigan 日本語版 Vol.1 / クリス・ウェア
Jimmy Corrigan: The Smartest Kid On Earth / Chris Ware (1953)


2007年/プレスポップ・ギャラリー
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(初出:『STUDIO VOICE』2007年月号)

時を超えて引き継がれていくアメリカの矛盾

 コミックに新たな次元を切り開いたクリス・ウェアの代表作『JIMMY CORRIGAN』。3冊に分けて発売されるその日本語版の第1巻を読んで、筆者がまず連想したのは、トッド・ギトリンのこんな文章だった。「そもそも自己の帰属性や価値について自信が持てなくなった時、不安に駆られるのは自然な反応であるが、中でもアメリカ人は人に認められること、排除されることを恐れること、帰属意識をもつこと、自分が価値ある人間だと自覚することに誰よりも敏感な国民である」(『アメリカの文化戦争』)

 このコミックの主人公は、タイトルにあるジミー・コリガンだが、彼は一人ではない。まず、現代を生きる36歳のジミーが登場する。彼は年よりも老けて見え、会社で雑用係として働き、老人ホームにいる母親を除けば話し相手もいない。ひどく孤独で、情緒面に問題を抱え、世間から見捨てられている。ある日、そんな彼のもとに顔も知らない父親から手紙が届き、彼はシカゴからミシガンに飛び、その父親と対面する。もう一人のジミーは、彼の祖父で、その少年時代の物語が描かれる。ジミー少年は、父親に連れられてシカゴの祖母の家に引っ越してくる。その父親の目当ては、病床にある祖母の遺産だ。そして、粗暴な父親に怯えるジミー少年もまた、ひどく孤独で、情緒面に問題を抱えている。

 二人のジミー、あるいは四世代に渡るコリガン家の男たちの物語の背景には、1890年代から1980年代に至る百年近い時の流れがある。しかも、その物語では現在と過去、そしてジミーの夢や幻想が入り組んでいく。クリス・ウェアは、スーパーマンや馬、桃、拳銃などの象徴的なイメージ、シャワーや電話などの音にこだわった表現、細かなテキスト、緻密な計算に基づくレイアウトや色のバランス、ペーパー・クラフトなど、多様なアイデアと手法を駆使して、この二組の親子の世界を結びつけ、ひとつの宇宙を作り上げていく。

 二人のジミーは、時を隔てて、同じストリートや建物を目にしている。彼らが窓から外を見る場面や逆に窓の向こうに彼らの姿が浮かび上がる場面が強調されていることにも注目すべきだろう。窓という境界は、彼らの閉ざされた世界を象徴している。ちなみに、彼らにとって曽祖父と父親にあたるコリガン氏は、ガラス工であり、彼が窓ガラスを配達し、窓枠にはめこむ場面も描かれている。


◆プロフィール◆

クリス・ウェア
1967年にネブラスカ州、オマハに生まれた。“Jimmy Corrigan: The Smartest Kid on Earth”が初めて連載されたのは、現在まで18巻出版され、今後も不定期に発売予定である彼のコミック・ブック・シリーズ“The ACME Novelty Library”においてであり、2000年にはAmerican Book Awardを、2001年にはGurdian First Book Awardを、そして2003年には全く世に知られていないフランスの賞、L'Alph Artを受賞した。現在、彼は主にThe New Yorker誌とThe Virginia Quarterly Review誌に作品を提供し、2004年には“McSweeney's Quarterly Concern”の13号を編集し、2005年にはThe New York Times Magazine誌で初めて連載を持つコミック作家となった。不可解なことに、彼の作品は2002年のWhitney Biennial参加作品として選出され、2006年夏にはMuseum of Contemporary Art in Chicagoが彼の展覧会を開いた。高校で科学を教え彼よりもずっと勤勉に働く妻マーニー、そして娘のクララとともにイリノイ州シカゴに在住。
(『Jimmy Corrigan日本語版Vol.1』より引用)


 

 しかし、それ以上に効果的なのが、登場人物たちの顔の扱いだ。この作品では、二組の親子以外にも、ジミーの母親や彼が飛行機で隣り合わせる婦人、ジミー少年の祖母など、様々な人物が登場するが、彼らの顔を見ることはできない。コマで切られたり、影や髪の毛で隠されているのだ。二人のジミーは、相手の顔や目を見て話をすることができない。だから、顔が描かれない。その結果、似た顔を持ち、似た関係にある二組の親子の存在がより際立ち、見事に重なっていくのだ。

 冒頭の引用にある帰属や排除をめぐるアメリカ人の意識と、この親子の関係に限定された物語を関連付けるのは、無理があるように思われるかもしれない。その冒頭の引用の後にはこんな文章が続く。「彼らにとりついたこの意識は永年にわたって彼らの民主主義思想を独特のかたちで育て上げた。その結果、アメリカ人は場合によっては他人の価値を認めないことによって己の価値を確かめることを覚えた。アメリカ合衆国とは何と矛盾した国だろう。(中略)われわれは平等を主張することによって他者を重んじない態度を育む

 クリス・ウェアは、四世代に渡る親子の関係に、そんな意識を巧みに埋め込んでいる。たとえば、ジミー少年の父親が、新聞売りの黒人少年から友情を勝ち取ろうとして失敗するエピソードだ。彼はもう一人の客と勝手に駆け引きを演じ、小銭を準備するが、その客に慈善の機先を制されてしまう。すると気持ちががらりと変わり、少年に聞こえないように「黒んぼめ」と囁く。だが、彼は必ずしも差別主義者ではない。こんな言葉がそれを物語っている。「みんなが欲しいものを取って行ったらどうするんだ? おい?」「なあ? そうしたらワシらはどうなる?」。一方、ジミーが対面した父親は、テレビで殺人事件のニュースを見ながら、こんな言葉を口にする。「バカタレのラテン系め、撃ち合って全員死のうとワシの知ったことか」「どうせこのクソガキがワシの車を盗んだんだろ、地獄におちろ」。だが、彼も差別主義者ではない。それは、この先の物語で明らかになるだろう。

 二人のジミーは、それぞれの父親から人種の違いだけに限定されないそんな他者への意識を嗅ぎ取り、帰属と排除の狭間で引き裂かれていく。彼らは、排除されることに怯えるあまり、父親殺しのような破壊的な衝動も垣間見せる。彼らの孤独や疎外感の源には、アメリカ人の意識がある。四世代に渡る親子の物語からは、アメリカという矛盾した国が見えてくるのだ。

 
《参照/引用文献》
『アメリカの文化戦争』トッド・ギトリン●
疋田三良・向井俊二訳(彩流社、2001年)

(upload:2007/12/15)
 
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