デイヴィッド・クローネンバーグ
David Cronenberg


ザ・ブルード―怒りのメタファー/The Brood―――― 1979年/カナダ/カラー/91分/ヴィスタ/モノ
スキャナーズ/Scanners――――――――――――― 1981年/カナダ/カラー/104分/ヴィスタ/モノ
ビデオドローム/Videodrome――――――――――― 1983年/カナダ/カラー/87分/ヴィスタ/モノ
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(初出:「SWITCH」1992年vol.5、若干の加筆)
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 クローネンバーグは、どこからこのようなイメージを引き出してくるのだろうか。

 筆者がこの作品で印象に残ったのは、寄生虫の共同研究者が、この映画の主人公である医師に寄生虫の解説をするその内容である。 その台詞は、『裸のランチ』のある一節にほとんど符号している。『裸のランチ』の一節とは次のようなものだ。 「エジプトには人間の腎臓の中に入り込んで、とてつもない大きさに成長する蛆虫がいる。最後に腎臓は蛆虫を包む薄い皮にすぎなくなってしまうのだ

 共同研究者は、寄生虫が体内で血液を濾過する機能を果たすことを説明した後で、その具体例としてこんなふうに語る。 「まず、腎臓病患者に寄生虫を入れる。寄生虫は腎臓を溶かし、患者の体と完全に同化する。つまり、腎臓と同じ機能を果たすことになるんだ

 こうした符号は、ふたりの作家が描く寄生やウィルスに関する共通部分だ。ちなみに、『裸のランチ』の引用部分の方は、 この小説の書名とも結びつくこんな描写に続いている。「今しがた例のランチというやつが届いたところだ・・・ 殻をとった堅ゆでの卵は未だかつて見たことがないような代物だ・・・おそろしく小さな黄褐色の卵・・・  たぶんカモノハシが生んだものだ。黄身の中には大きな蛆虫が入っていて、その他にはほとんど何もなかった・・・ この蛆虫のやつはまさにいの一番に黄身の中に入り込んで占領してしまった・・・

 これが何を暗示しているかはもはや説明の必要がないだろう。 こうした寄生、ウィルスのイメージは、 『シーバース』に続く『ラビッド』などにも当てはまる。これはさっきも少し触れているが、中性化処理した皮膚を移植手術した女性が、変異を起こし、 腋の下から突起が出て、血を吸うようになる。血を吸われた人間は、ウィルスが伝染するように、同じ症状におちいっていく。

 それでは、今度は、バロウズが、カット・アップを駆使して作り上げた宇宙時代の神話「爆発した切符」から、いくつかのイメージを拾い集めてみよう。 「エングラム化されたテープを誰かに転移すると、多くの場合<きれい>になります。このエングラム・テープは実は生物であり、有機体であり、 ビールスなのです・・・こうなることで有利な立場に立てるわけなのです・・・どんな抵抗だってエングラム・テープで崩せます」、「直腸と陰毛が合成肉体に滑りこみ、 ペニスと直腸がスクリーンとベッドで溶け合っていた」、「黒い食物の国の光る拷問フィルム

 何か、クローネンバーグの映画の断片が見えてこないだろうか。"拷問フィルム"というのは、『ビデオドローム』の主人公マックスが、 "ビデオドローム"の存在を知るきっかけになるあの拷問の映像を連想する。人の抵抗を奪うウィルス、エングラム・テープは、マックスの腹にできた亀裂に押し込まれ、 彼を支配するビデオ・テープ。そして、メディアと肉体とエロティックな粘膜が倒錯していくイメージ。

 というように、クローネンバーグもまた、これまで、生々しい寄生虫、性器を連想させる突起、そして、ビデオ・テープと様々なウィルス・イメージを映像化してきたことになる。 そんなクローネンバーグにとって、バロウズが開拓したウィルスのイメージのなかで、次第に魅力的になってくるのが、?言葉?≠ニいうことになるだろう。 バロウズは、言葉のウィルスが体内に侵入して人々を支配する病に対する処方箋としてカット・アップを生み出した。そして、小説『裸のランチ』には、 「おとなしい読者よ、言葉はヒョウ男の鉄の爪をむき出してあなたに飛びついてくるだろう」とある。

 映画『裸のランチ』は、言葉のウィルスを描く作品ともいえる。しかし、言葉は、爪をむき出して主人公リーに飛びつくわけではない。 リーは、幻覚のなかで、カブトムシ化したタイプライターに支配され、主人なきスパイとなり、報告を打ち続けることになる。 言葉のウィルスに関する、いかにもクローネンバーグ的な映像翻訳である。

■■イメージ、ホラー、SF、ナラティブ■■

 クローネンバーグは、ショッキングな肉体変容劇ゆえに、最初の頃は、ホラー映画のジャンルで評価され、しだいに、ジャンルでくくることのできない注目すべき監督へと脱皮を果たした。 そうした評価に変化についてクローネンバーグはこんなふうに語る。

わたしが映画を撮り始めた頃、多くの人はとても表面的なものしか観ていなかった。ショッキングなシーンにばかり目がいってしまってね。 でも、わたしにとっては常に哲学的な冒険だった。いまはみんな、気がつきはじめたと思うが

 しかし、このことについて少しばかり触れておくなら、当初、ホラー、あるいは、SFの作品と見られたことは、クローネンバーグに幸いしているのではないだろうか。 というのも、"ウィルス"のところでも触れたように、彼は、イメージからイメージを紡ぎ出して映像を作っていくような作家で、ナラティブな作家とは思えないからだ。

 たとえば、初期の自主映画は、設定などはすべてナレーションをすませ、後は、ほとんどイメージで作品を構成している。『シーバース』や『ラビッド』のような初期の作品も唐突にイメージが暴走していくような展開であることは否定できない(もちろん、バロウズ的とはいえるのかもしれないが)。 逆にいえば、ジャンルが隠れ蓑になってイメージをスムーズに前に押し出す手助けをしたのではないかと思う。こうした作品が、最初から哲学的な冒険として見られていたら、 映画の監督としてはけっこう苦しいところに追い込まれたのではないだろうか。

 その後のクローネンバーグは、原作のあるものの映画化とかリメイクなど、ナラティブな土台にイメージをのせることにも馴染んできている。 そして、『裸のランチ』はといえば、原作が何冊かあるにはあるが、イメージのコラージュからナラティブな映画を作り上げているということで、それが、 この映画を深みのあるものにしているひとつの要因になっているのではないかと思う。

■■肉体、セックス、かたち、過剰と欠落■■

 バロウズとクローネンバーグの作品には、性器や内臓、汚物、拷問、SMやホモなど、肉体とセックスをめぐる様々なイメージが溢れている。 これまた一見共通しているようだが、ふたりの描き出すイメージは、ここらあたりから、次第に、異質なもののように思えてくる。


―ザ・ブルード/怒りのメタファー―


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・クローネンバーグ
David Cronenberg
撮影   マーク・アーウィン
Mark Irwin
編集   アラン・コリンズ
Alan Collins
音楽   ハワード・ショア
Howard Shore

◆キャスト◆

精神科医ハル・ラグラン   オリヴァー・リード
Oliver Reed
ノラ・カーヴェス サマンサ・エッガー
Samantha Egger
フランク・カーヴェス アート・ヒンドル
Art Hindle
キャンディス・カーヴェス シンディ・ハインズ
Cindy Hinds
(配給:ケイブルホーグ)
 
―スキャナーズ―


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・クローネンバーグ
David Cronenberg
撮影   マーク・アーウィン
Mark Irwin
編集   ロナルド・サンダース
Ronald Sanders
音楽   ハワード・ショア
Howard Shore

◆キャスト◆

キャメロン・ベイル   スティーヴン・ラック
Stephen Lack
キム・オブリスト ジェニファー・オニール
Jennifer O’Neill
ポール・ルース博士 パトリック・マクグーハン
Patrick McGoohan
ダリル・レヴォック マイケル・アイアンサイド
Michael Ironside
ブレードン・ケラー ローレンス・デイン
Lawrence Dane
(配給:東映)
 
―ビデオドローム―


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・クローネンバーグ
David Cronenberg
撮影   マーク・アーウィン
Mark Irwin
編集   ロナルド・サンダース
Ronald Sanders
音楽   ハワード・ショア
Howard Shore

◆キャスト◆

マックス・レン   ジェームズ・ウッズ
James Woods
ビアンカ・オブリヴィヨン ソーニャ・スミッツ
Sonja Smits
ニッキ・ブランド デボラ・ハリー
Deborah Harry
ハーラン ピーター・ドゥヴォルスキ
Peter Dvorsky
バリー・コンヴェックス レスリー・カールソン
Leslie Carlson
(配給:ユーロスペース)
 
 
 

 クローネンバーグの映画には、肉体も精神もふくめて、"かたち"というものに対するこだわりがいつもちらついている。 たとえば、『戦慄の絆』の双子の弟は、兄との均衡が崩れ出したときに、 診療に際して、生身の身体には使えない医療器具を患者に対して使い、問題となる。しかし、彼は、器具ではなく患者の女性の身体に問題があるのだと信じこんでいる。 もちろん、こうした思い込みが激しくなれば、他の映画にあったように、肉体の改良へと進んでいく。

 クローネンバーグの映画は、肉体の過剰や欠落から、強引なドラマがひもとかれていく。強引なドラマというのは、イメージから膨らむ必ずしもナラティブとはいえないような展開が、 そうしたイメージに比べるとひどくオーソドックスに見えてしまう人間関係の絆に割り込んで作り上げられるドラマといえばいいだろうか。

 最もわかりやすいのは、『ザ・フライ』が、蠅男への肉体的変容や巨大な蛆虫を産み落とすという悪夢のようなグロテスクなイメージにあふれているにもかかわらず、 立派に恋愛映画として受け入れられたということだ。これは、肉体の過剰や欠落がひもとく強引なドラマだろう。逆にいえば、精神的なものも含めて、 男と女の"かたち"というものに対する深いこだわりがなければ、強引なドラマとして成立しないともいえる。

 腋の下から男性性器を思わせる突起があらわれ血を吸うようになる『ラビッド』の女性主人公は、 ウィルス・イメージを撒き散らすが、この作品も彼女を追うボーイフレンドとの悲劇のドラマになっている。女性主人公の肉体の過剰が悲劇のドラマをひもとくのだ。 腹部に女性性器を思わせる亀裂が生じる『ビデオドローム』の主人公マックスとその恋人の関係にも同じことがいえる。

 子供を奪われ、家庭というかたちを失った母親が、その心理に潜む怒りによって、自分の生体を変えてしまい、怒りをかたちとして子供のごとくひとりの力で体外に産み落とす『ザ・ブルード』などもその変奏といえるし、 性の饗宴が家庭のかたちとしての枠組みを取り払っていく『シーバース』も同様だ。超能力戦のドラマに兄弟の絆を持ち込む『スキャナ−ズ』にもそういう指向が顕著に出ている。体内に三つの子宮を持ち、 子供が生めないことから完全な意味での女性とはいえないと考える『戦慄の絆』の女性主人公は、セックスや薬にのめり込むことによって、双子の関係に不穏なノイズを送り込み、均衡を崩していく。

 クローネンバーグが、肉体の過剰や欠落からひもとくのは、精神的、感情的、血縁的な絆の喪失のドラマだ。

 ところで、『裸のランチ』の映画化にあたって、もしクローネンバーグがあたまを抱えることがあったとしたら、それは、このかたちというものの不在ではなかろうか。 バロウズの世界では、かたちというものは瞬時に崩れさっていくし、もともとないようにも思える。すべては、完全で不完全だし、あまりにも過剰で、しかも究極の欠落ともいえる。===>3ページへ続く

 

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