――『バスケットケース』の最後には、ハーシェル・ゴードン・ルイスに捧ぐ≠ニいうクレジットが入ってますね。
FH ジャンク・フィルムのパイオニアにあの映画を捧げたんだ。あの頃は、まだ誰も彼のことを知らなかったからね。
――『バスケットケース2』で、フリークスたちが女性ジャーナリストを血祭りにあげる展開は、トッド・ブラウニングの『フリークス』をなぞっていますね。
FH その通りだ。『フリークス』を知っている人にこの作品との繋がりがわかってもらえばいいと思ったんだ。『フリークス』でわたしが一番衝撃を受けたのは、結婚式のパーティで、
フリークスたちが巨大な杯を回して花嫁を仲間に加えようとするところだった。だから、『バスケットケース2』のラストをバーベキュー・パーティのシーンにしたんだ。
――どちらの映画にも、正常なるものへの会議という主題があると思いますが。
FH そう。フリークスの方が人間的で、ノーマルな人間の方がいかに残虐かを描いている。観客は誰もが、ベリアルに同情するが、だからといって、ノーマルな人間を殺していいということではない。
そこで、観客の感情に摩擦が起こるんだが、観客は、それぞれどこかで一線を引かなければいけないんだ。
――日本ではちょっと前に、ホラーやアニメのマニアの若者が少女を次々に殺す事件があって、そこでホラー・ビデオなどを規制しようという動きがあったのですが、そのことについてどう思いますか。
FH それは、その若者自身に問題があったんだ。彼は、映画を観なかったとしても、何か事件を起こしたと思う。映画とか写真、芸術というものは、社会や人を変えているんじゃない、
社会とか存在しているものを表現しているだけなんだ。レコードの歌詞や映画、ポルノのせいにする、そういったものをスケープゴートにする社会はばかげている。そういう社会というのは、人種や階級の差別、物欲に動かされているんだ。
たとえば、ジョン・レノンは射殺されたが、その犯人は『ライ麦畑でつかまえて』を読んでレノンを殺さざるを得なかったと発言した。だからといって、文学とか本をみんな燃やしてしまえばいいのか。
ニューヨークでサムの息子と名乗る男が女性を射殺した。彼は、犬からそうしろと言われたと発言したんだ。そうしたら、犬を全部殺すのか。人間というのは、すぐに答を求めたがるものなんだ。特にそんな事件があると、
どうしてそんなことが起こったのか説明がつかないときに、手っ取り早い答に飛びつくんだ。しかし残念ながら、簡単な答も解決法もないと思う。 |