ガスメルバリは政治家の家系に属していたため、家族や親族の多くが拘束されるか、亡命することを余儀なくされた。彼自身は14歳で政治に関わるようになり、当局から目をつけられる前に16歳でスーダンを離れた。まず父親がいるUAEに向かい、反対派の拠点になっていたエジプトで暮らし、それからパリに移った。
彼はパリの大学で映画を学んだが、その頃には国を離れたことを後悔していた。そこで、卒業制作の劇映画を撮影するためにスーダンに戻る。だが、撮影許可を得ることは難しく、妥協する気もなかったので企画を断念した。そんなときに彼が出会ったのがスレイマンで、それをきっかけに4人と行動をともにするようになり、本作へと繋がることになる。
ガスメルバリの世界観は、4人との交流を通して変化していったように思えるが、そこに話を進める前に注目しておきたい作品がある。彼は本作を撮影している間に、アルジャジーラのドキュメンタリー番組「WITNESS」で放映するために「Sudan’s Forgotten Films」という作品を作っている。
その舞台は国立フィルム・アーカイブ。そこには、映画先進国だったスーダンの遺産ともいえる13000本を超えるフィルムが保管されている。実はその施設は、本作にもわずかながら登場している。スレイマンがある建物のなかで、スチールラックに積み上げられたフィルム缶の中身をチェックする場面だ。
その国立フィルム・アーカイブには、ベンジャミンとアワドというふたりの職員がいる。政府はその遺産をずっと放置し、フィルムはまともな空調もない劣悪な環境で劣化しつつある。他にコピーがないそれらのフィルムがダメになれば、スーダンの視覚的な歴史が失われることになる。ふたりは、支援もない孤立状態で、補修や整理をつづけている。
そんな彼らの絆をより印象深いものにしているのが、ベンジャミンの複雑な立場だ。南スーダン出身の彼は、南スーダン独立後は外国人として扱われ、厳しい生活を強いられている。にもかかわらず彼は、フィルムに刻まれた歴史が新しい世代に引き継がれることを夢見て尽力する。
このTVドキュメンタリーと本作には、共通する視点がある。映画より先に政治に目覚めたガスメルバリは、独裁政権と反対派という二元論にとらわれていてもおかしくない。もし彼がそういう立場であれば、体制を批判する要素を盛り込むところだが、両作品ともその代わりに主人公たちの内面に関心を向け、掘り下げている。それが圧力に屈するのと違うことは、筆者が冒頭で言及した場面を振り返ってみればわかるはずだ。
ガスメルバリはなぜ古い手紙にまつわる場面を盛り込んだのか。彼らの親密な関係を表現するためだけではないだろう。イブラヒムの手紙には、「俺はカイロと決別した」と書かれている。エジプトが反対派の拠点だったことを踏まえるなら、それは二元論から脱却し、独自の道を歩むことを意味している。と同時に、4人との交流を通して変化したガスメルバリ自身のメッセージにもなっている。
『サンセット大通り』のラストが再現される冒頭も、ハリウッドへの単なるオマージュではない。この場面では、世の中から忘れられた映画製作者たちが、世の中から忘れられた女優の末路を再現する。過去にすがりつくしかない女優は、自分を見失い、幻想に溺れていく。だが4人組は、現実を見据え、スーダン映画の歴史を背負って前に進もうとする。
ガスメルバリは、思慮深く、ユーモアを忘れず、ブレることなく未来に繋がる種を蒔きつづける主人公たちの姿を、実に生き生きと描き出している。 |