"大停電"は、誰も予想しないときに起こり、多くの人々の日常生活を限られた時間だけストップさせるものであるはずだが、この映画の大停電は、最初からそんな公平性を欠いている。それは、大停電がクリスマス・イヴに起こるからということではない。イヴがいくら特別な夜だからといっても、一生に一度の夜というわけではない。
しかし、この映画の登場人物たちは、大停電が起こる前から、一生に一度といえるような特別な時間を過ごしている。人はクリスマスがやって来るたびに、不倫関係を解消したり、離婚届を準備したり、出所して昔の女に会ったり、産気づいたり、母親が生きていることを知らされたり、自分の店をたたむ決意をしたり、これからの人生を変えることになるであろう手術を受けることはない。
つまりこれは、東京という都市のなかで、仕事や消費に追われる人々が、停電を契機にふと立ち止まり、何かを見出す映画ではなく、人生の分岐点に立つ人々が、謎の衛星に選ばれることによって、決断を見直す猶予を許される映画であり、彼らのドラマが照らし出す東京は、ある意味で「東京タワー」と同じように、その他の無数の人々によって生きられる東京とはほとんどなんの関係もない。
大停電が生み出したかもしれないダイナミズムは、そんなふうにして謎の衛星に制御されてしまう。その制御をファンタジーといってしまえばそれまでだが、大停電の夜に本当に見えてくるべきものは、美しい東京の映像の陰に埋もれている。
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