1920年代に作られたドイツ表現主義の古典『吸血鬼ノスフェラトゥ』。このF・W・ムルナウ監督の代表作で、吸血鬼に扮した俳優マックス・シュレックが、実は本物の吸血鬼だったとしたら…。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』制作の舞台裏をユニークな解釈で描く『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』には、何とも不思議な魅力がある。俳優のシュレックが本物の吸血鬼なら、映画はドキュメンタリーに近いものになるところだが、正体を知っているのは監督のムルナウただひとりであり、虚構としての台本は存在している。そんな設定から、現実と虚構の奇妙なねじれや転倒が次々に生みだされていくのだ。
スタッフは、吸血鬼になりきっているシュレックに驚嘆しているうちに、餌食にされてしまう。ムルナウは、俳優を本物らしく演出するのではなく、吸血鬼の衝動を抑えて演技させることに四苦八苦している。シュレックは、不要だと思える脚本家に食欲をそそられるかと思えば、わがままなスターのように、船での撮影や移動を拒む。ウィレム・デフォーの異様な形相と怪演がまた、実によくはまっている。
なかでもクライマックスの現実と虚構のねじれは壮絶だ。孤島に移動して映画のラストシーンを撮る準備を進めていた撮影隊は、そこから出る手段を奪われ、吸血鬼に追いつめられる。台本では、ヒロインが人々を救うために、吸血鬼の前に身を投げ出すわけだが、実際には、撮影隊が生き残るために、ヒロインにはどうしても犠牲になってもらわなければならなくなる。台本どおりのドラマは、命懸けのドキュメンタリーともなる。
というように、この映画では、ねじれや転倒から生まれるサバイバルの恐怖と笑いが、ドラマのテンションを下げることなく、最後までしっかりと絡み合ってしまう。それは単に怖くて可笑しいということではない。あくまで特殊な状況を描いているかに見える映画が、象徴的なレベルでは、映画作りに関するより普遍的で辛辣なドラマにもなっている。そこからは、吸血鬼よりも恐ろしい、創造への欲望とエゴが浮かび上がってくるのだ。
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