世界で一番美しい夜
The Most Beautiful Night in the World


2007年/日本/カラー/160分
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(初出:『世界で一番美しい夜』プレス&劇場用パンフレット)

破滅に向かう近代を乗り越えるための選択

 天願大介監督の新作『世界で一番美しい夜』は、既視感を覚える作品だ。この映画と彼の父である故・今村昌平監督が作り上げた『神々の深き欲望』には、多くの興味深い接点がある。新作に関するプロダクション・ノートといえるものが手元にまったくない状態なので、これはすべて筆者の解釈に過ぎないが、天願監督はこの作品で、『神々の深き欲望』の設定や人物を最大限に生かしながら、その後の日本の解剖を試みているように思える。

 もちろんそれは、決して容易なことではない。『神々の深き欲望』の舞台は、土俗的な風習や血縁共同体が残る架空の島で、そこに近代化の波が押し寄せてくる。現代の日本を見つめる『世界で一番美しい夜』では、いくら日本の西の外れにある村とはいえ、そこにはもはや前近代的な世界は存在しない。中央と地方の格差は広がり、村長は、過疎という危機から脱するために、米軍基地や核廃棄物処理場などを見境なく誘致しようと画策している。肝心の舞台がそれほどまでに違いながら、ふたつの作品を結び付けられるのは、父親の精神を引き継ぎ、しかも、かつて舞台版『神々の深き欲望』の脚本を手掛けて作品を熟知している天願監督くらいのものだろう。

 『世界で一番美しい夜』が、もうひとつの『神々の深き欲望』であることは、主要な登場人物たちに着目すればすぐにわかる。『神々の深き欲望』の根吉と妹のウマ、根吉の娘のトリ子、そして刈谷は、『世界で一番美しい夜』の仁瓶、輝子、〆子、一八へと実に巧妙に置き換えられている。彼らを対比してみれば、時代の変化が見えてくる。

 東京から島に送られ、製糖工場の準備を進める技師の刈谷は、近代化、合理化の象徴だった。一八には、もはやそんな象徴性はない。東京でトラブルを抱え込んだ彼は、左遷されて要村に赴任してくる。根吉は、村の掟を破り、タブーを侵したために、罰として、津波で神田に上がった巨岩を埋めるための穴を掘り続ける。仁瓶は、テロ行為によって服役し、いまは河口に浮かぶ船で研究に没頭している。彼らには、神や縄文の力を甦らせようとしているという共通点がある。

 女たちの繋がりは、さらに印象深い。ウマの一族は、代々神に仕えるノロの家系で、彼女は巫女だった。輝子は、スナックのママだが、同時に巫女でもある。トリ子は、知的障害ゆえに性的な奔放さを持つ娘だった。〆子は、周囲から知的障害のある娘のように見られている。ここで天願監督は、ウマと輝子、トリ子と〆子の存在を短絡的に結び付けているわけではない。輝子は、母親が娼婦だったために疎外されてきた。〆子は、頭が良すぎるうえに、バカアレルギーだったために登校拒否になった。それらは、彼女たちの特殊な能力に相応しい賤民的な位置づけといってよいだろう。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   天願大介
プロデューサー 古賀俊輔

エグゼクティブ・
プロデューサー

仙頭武則
撮影 古谷巧
照明 高坂俊英
美術 稲垣尚夫
録音 石貝洋
編集 阿部亙英
音楽 めいなCo.
 
◆キャスト◆
 
水野一八   田口トモロヲ
檜原輝子 月船さらら
二瓶欣一 石橋凌
ミドリ 市川春樹
石塚 松岡俊介
〆子 美知枝
鬼塚健児 斉藤歩
テレサ 江口のりこ
遠藤

佐野史郎

ジャーナリスト 柄本明
権三 三上寛
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(配給: ファントム・フィルム )


 そして、トリ子と技師の刈谷が結ばれたように、〆子と蛇となった一八が結ばれる。根吉とウマが島の神話を再現するために船出したように、仁瓶と輝子が革命を起こすために船出する。だが、物語の結末は対照的だ。『神々の深き欲望』では、ドンガマ祭りという儀式で一体化した人々が、悲劇を招き寄せる。この映画では、対立の炎から偶発的に生まれた儀式によって一体化した人々が、“世界で一番美しい夜”を迎えることになる。

 『神々の深き欲望』から引き継がれた様々な要素は、縄文時代に向けられた視点を通して、ひとつにまとめあげられていく。天願監督は、バブル期あたりから縄文文化が注目を集めるようになったことを意識して、そんな視点を盛り込んでいるのだろう。

 縄文文化が注目される大きな原動力となった梅原猛は、その世界観について以下のように語っている。「縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、そして生きとし生けるものがすべて、この世とあの世の間を循環する世界観であるということがわかります。この共存の世界観は、近代の世界観である、人間が一方的に生きとし生けるものを支配し、その支配することが人間にとって幸福であり進歩であるという近代の人間中心的な進歩史観とは全く違います」

 この映画のなかで、〆子は、こんな台詞を口にする。「ヨーロッパ人は時間を直線だと考えた。だから時計の針はどんどん前に進み、やがて破滅に至る。進歩、進化、絶滅」「もし退化することができれば、時間は退行して時計の針を戻せる。直線でなく、丸く、ああ、そう、あの遺跡みたいに」

 この循環の世界観は似ているが、天願監督はこの映画で、近代を乗り越えるための答えとして縄文時代の世界観を提示しているわけではない。映画の冒頭のアニメーションで、文明を捨て、退化した男は、図らずも火を発明してしまう。そんな男が、不幸になるのか幸福になるのかはわからない。仁瓶が発明し、〆子の娘のミドリが後に改良を加える“縄文パワー”によって、人々が幸福になるのかどうかもわからない。映画の最後でミドリが語るように、約束された未来などなく、各自が自分で未来を選択していかなければならないのだ。


《参照/引用文献》
『縄文人の世界 日本人の原像を求めて』梅原猛・編●
(角川書店、2004年)

(upload:2009/01/31)
 
 
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