天願大介監督の新作『世界で一番美しい夜』は、既視感を覚える作品だ。この映画と彼の父である故・今村昌平監督が作り上げた『神々の深き欲望』には、多くの興味深い接点がある。新作に関するプロダクション・ノートといえるものが手元にまったくない状態なので、これはすべて筆者の解釈に過ぎないが、天願監督はこの作品で、『神々の深き欲望』の設定や人物を最大限に生かしながら、その後の日本の解剖を試みているように思える。
もちろんそれは、決して容易なことではない。『神々の深き欲望』の舞台は、土俗的な風習や血縁共同体が残る架空の島で、そこに近代化の波が押し寄せてくる。現代の日本を見つめる『世界で一番美しい夜』では、いくら日本の西の外れにある村とはいえ、そこにはもはや前近代的な世界は存在しない。中央と地方の格差は広がり、村長は、過疎という危機から脱するために、米軍基地や核廃棄物処理場などを見境なく誘致しようと画策している。肝心の舞台がそれほどまでに違いながら、ふたつの作品を結び付けられるのは、父親の精神を引き継ぎ、しかも、かつて舞台版『神々の深き欲望』の脚本を手掛けて作品を熟知している天願監督くらいのものだろう。
『世界で一番美しい夜』が、もうひとつの『神々の深き欲望』であることは、主要な登場人物たちに着目すればすぐにわかる。『神々の深き欲望』の根吉と妹のウマ、根吉の娘のトリ子、そして刈谷は、『世界で一番美しい夜』の仁瓶、輝子、〆子、一八へと実に巧妙に置き換えられている。彼らを対比してみれば、時代の変化が見えてくる。
東京から島に送られ、製糖工場の準備を進める技師の刈谷は、近代化、合理化の象徴だった。一八には、もはやそんな象徴性はない。東京でトラブルを抱え込んだ彼は、左遷されて要村に赴任してくる。根吉は、村の掟を破り、タブーを侵したために、罰として、津波で神田に上がった巨岩を埋めるための穴を掘り続ける。仁瓶は、テロ行為によって服役し、いまは河口に浮かぶ船で研究に没頭している。彼らには、神や縄文の力を甦らせようとしているという共通点がある。
女たちの繋がりは、さらに印象深い。ウマの一族は、代々神に仕えるノロの家系で、彼女は巫女だった。輝子は、スナックのママだが、同時に巫女でもある。トリ子は、知的障害ゆえに性的な奔放さを持つ娘だった。〆子は、周囲から知的障害のある娘のように見られている。ここで天願監督は、ウマと輝子、トリ子と〆子の存在を短絡的に結び付けているわけではない。輝子は、母親が娼婦だったために疎外されてきた。〆子は、頭が良すぎるうえに、バカアレルギーだったために登校拒否になった。それらは、彼女たちの特殊な能力に相応しい賤民的な位置づけといってよいだろう。 |