ローレライ

2005年/日本/カラー/128分/シネスコ/ドルビーサラウンド6.1EX
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(初出:「CD Journal」2005年3月号 夢見る日々に目覚めの映画を41、抜粋のうえ加筆)
過去の戦争と過去に設定された現代の戦争の違い

 福井晴敏のベストセラー『終戦のローレライ』には、"ガンダム"の世界が埋め込まれている。降伏したドイツから日本にもたらされた潜水艦には、戦争の形態を変えるといわれる秘密兵器<ローレライ>が搭載されている。その乗組員は、任務も知らされないまま各地から寄せ集められた規格外の軍人たちだ。潜水艦には<伊507>という艦名がつけられてはいるものの、艦隊に正式登録されてはいない。戦場に乗り出した乗組員の間には結束が生まれ、機械に習熟した17歳の折笠は<ローレライ>と一体化することによって、<伊507>と仲間たちの窮地を救う。日本海軍に属さない彼らは、独自の戦いのなかで答を見出そうとする。つまり、<伊507>は、ホワイトベースやアークエンジェルであり、折笠は、アムロ・レイやキラ・ヤマトであり、<ローレライ>はガンダムなのだ。また、パウラにはララァに通じるオーラがあるといってもよいかもしれない。

 この長大な原作を映画化するためには、当然、物語を大幅に削らなければならないが、そのガンダムの世界を壊してしまっては、映画化する意味がなくなってしまうだろう。この映画では、ガンダムの世界の中心にいる折笠の視点や存在が霞んでいる。それが最もよく現れているのが、浅倉大佐が<伊507>の乗組員たちに無線で本当の任務を伝える場面だ。原作で、その浅倉と対決するのは折笠だ。乗組員たちは浅倉の言葉に呪縛されていく。しかし、絹見からマイクを奪い取った折笠が、「あんたたち大人が始めたくだらない戦争で、これ以上人が死ぬのはまっぴらだ……!」という言葉によって、呪縛を解いてしまう。その後にはこのような記述がつづく。


◆スタッフ◆

監督   樋口真嗣
脚本

鈴木智

原作 福井晴敏
撮影 佐光朗
編集 奥田浩史
音楽 佐藤直紀

◆キャスト◆

絹見真一   役所広司
折笠征人 妻夫木聡
パウラ 香椎由宇
木崎茂房 柳葉敏郎
浅倉良橘 堤真一

(配給:東宝)


理路整然、付け入る隙のない浅倉の言葉に対し、がむしゃらに感情をぶつけてみせた征人の声は、聞く者全員の胸になにかしらの波紋を残した。実に単純な言葉で一方に傾きかけた振り子を押し戻し、半ば催眠状態に陥っていた乗員たちの頬をはたいて――それきり、いっさいの音信が途絶えてしまったのだった

 この場面は物語の重要な分岐点だが、映画で鍵を握るのは、折笠ではなく、絹見や木崎という大人なのだ。この違いは大きいだろう。原作でガンダムの世界が意味を持つのは、そこに描かれているのが、太平洋戦争末期という過去の戦争の物語ではなく、過去に設定された現代の戦争の物語であるからだ。浅倉は、第3の原爆を東京に投下することによって、彼のなかに見えている日本の未来を変えようとするが、その未来とは現代でもある。彼はそれをこんなふうに語る。

 「このまま連合国に降って、米国に占領されてみろ。日本人は己の虚無と向き合い、新しい自我を確立する機会を永遠に失ったまま、連中の物量経済に呑み込まれる。国体の見えない資本主義経済の恐ろしさを、貴様は想像したことがあるか?」「分限をわきまえない企業活動、その下僕となって消費に踊らされる大衆……。最低限の道徳も失った混沌が日本を支配する(以下略)」

 そんな現代をめぐる戦争であるからこそ、ガンダムの世界や折笠というキャラクターが生きる。しかし、映画が描くのは、過去の戦争だ。しかも、物語が、<ローレライ>と戦った米兵の回想として語られるというだめ押しによって、完全に過去に封じ込められてしまうのだ。


《参照/引用文献》
『終戦のローレライ(上・下)』福井晴敏●
(講談社 2002年)

(upload:2005/05/08)

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