「理路整然、付け入る隙のない浅倉の言葉に対し、がむしゃらに感情をぶつけてみせた征人の声は、聞く者全員の胸になにかしらの波紋を残した。実に単純な言葉で一方に傾きかけた振り子を押し戻し、半ば催眠状態に陥っていた乗員たちの頬をはたいて――それきり、いっさいの音信が途絶えてしまったのだった」
この場面は物語の重要な分岐点だが、映画で鍵を握るのは、折笠ではなく、絹見や木崎という大人なのだ。この違いは大きいだろう。原作でガンダムの世界が意味を持つのは、そこに描かれているのが、太平洋戦争末期という過去の戦争の物語ではなく、過去に設定された現代の戦争の物語であるからだ。浅倉は、第3の原爆を東京に投下することによって、彼のなかに見えている日本の未来を変えようとするが、その未来とは現代でもある。彼はそれをこんなふうに語る。
「このまま連合国に降って、米国に占領されてみろ。日本人は己の虚無と向き合い、新しい自我を確立する機会を永遠に失ったまま、連中の物量経済に呑み込まれる。国体の見えない資本主義経済の恐ろしさを、貴様は想像したことがあるか?」「分限をわきまえない企業活動、その下僕となって消費に踊らされる大衆……。最低限の道徳も失った混沌が日本を支配する(以下略)」
そんな現代をめぐる戦争であるからこそ、ガンダムの世界や折笠というキャラクターが生きる。しかし、映画が描くのは、過去の戦争だ。しかも、物語が、<ローレライ>と戦った米兵の回想として語られるというだめ押しによって、完全に過去に封じ込められてしまうのだ。
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