その意味は、『出エジプト記』に縁がなくとも、チャールトン・ヘストンがモーゼを演じたあまりにも有名な映画『十戒』を観れば、すぐにわかるだろう。“十の災い”は、ユダヤ人を解放しようとしないエジプト王に対して、ユダヤの神がモーゼを通してその力を示すために起こる。ところが、ヘイブンには、そんな図式が当てはまるような状況が見当たらない。住人たちは、兄を殺した少女ローレンが災いの元凶だと信じている。そして、“十の災い”が次々と現実のものとなり、住人たちに深刻な被害が及ぶに従って、それは、神ではなく悪魔の仕業のようにすら見えてくる。
この映画は、至るところで私たちの関心を現実に対する認識ということに振り向けようとする。たとえば、冒頭に描かれるチリの教会の場面では、信者の老女が、亡くなった神父の遺体が腐敗しないのを奇跡だと信じ、遺体から滲み出す汗を手に取り、口に含もうとする。それを見たキャサリンは、老女を止める。その現象の原因が有害物質にあると確信しているからだ。しかし、老女は彼女のことを、神を冒涜する悪魔とみなす。
それから、キャサリンとベンの奇跡に対する認識の違いにも注目すべきだろう。かつてスーダンで布教活動をしていたときに、娘と夫の命を奪われたキャサリンは、信仰を捨て去り、奇跡を完全に否定している。一方、かつて荒んだ生活を送っていた時代に、8発も銃弾を浴びながら九死に一生を得たベンは、神を信じ、いつか奇跡を確認するために調査をしている。彼らは、それぞれの過去の体験ゆえに、対照的な認識を持っている。
人の認識は、見せかけの現実や過去の体験に左右され、場合によっては、現実を完全に見失ってしまうこともある。キャサリンは、ヘイブンの教師ダグから調査を依頼されたとき、最初は断ろうとする。しかし、ひとりの少女に住民の疑いの目が向けられていることを知り、引き受けることにする。調査を進める彼女のなかでは、ローレンと娘の姿が重なっていく。ところが、災いが生み出す混乱に巻き込まれていくうちに、現実が見えなくなり、いつしかスーダンのときとは逆の立場に立っている。スーダンでは娘を連れ去った男を必死に追い、娘を助けようとした彼女が、ローレンを災いの元凶とみなし、その命を奪おうとするのだ。
この映画は、キャサリンの過去と現在、現実と見せかけの現実を交錯させることによって、彼女が現実を見失い、操られていく恐怖を描き出しているのだ。
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