瀬々監督の作品で最も印象に残るのは、物語が失われた世界を生きる人間の在り様をとらえる独特の感性だ。「雷魚」では、愛人である教師を殺しに行った女が、テレクラで知り合った無関係な男を殺し、「汚れた女」では、不倫相手の美容師と温泉に行くことを望んでいた主婦が、彼女が殺した女の夫であるタクシー運転手と温泉に旅立つことになる。
高度消費社会のなかでは、本質的な欲望は類型化され、断片化されていく。その結果、物語は崩壊し、他者と行為の組み合わせが瞬時に入れ替わる。瀬々作品の登場人物たちは、そんな関係を繰り返しながら、いつしか物語が失われた世界の外部へと彷徨いだし、現代の日常を異化してみせる。
「RUSH!」はこれまでの瀬々作品とは異質なテイストの映画に見えるが、そのテイストはまさに物語の欠落から生み出されている。ソヨンが仕組んだ狂言誘拐は、孫を撃ち殺した悪徳刑事の成瀬が即席で考え出した計画にすりかわったかと思えば、そこに今度は島崎という無関係な人間が割り込んでくる。
その島崎は見事に物語から見放されていく。妻を取り戻すはずが、彼女の相手をしていたホストと旅立ち、もしかすると自分のロマンスの相手になったかもしれないホステスをそのホストに持っていかれる。そして気づいてみれば、無関係な自称レスラーと旅をしている。おまけに、荒野が修羅場と化すきっかけを作り、最後には殺人鬼と化した安藤を前に、妻との対決のようには尻込みできない立場に追い込まれる。
一方、狂言誘拐の計画が崩れ去ったソヨンと昌也の関係も、決して物語に導かれることはない。彼らを取り巻く断片的な状況の組み合わせがせわしなく変わっていくのだ。ふたりを引き合わせた従業員カップルは消され、彼らはその正体も知らずに安藤を人質に逃走する。そして偶然にもトランクから5千万円を発見し、とにかく計画は成就したかに見えるが、今度は安藤の処分に困る。そこで一息ついた後、昌也はひとりで逃亡するが、銃声を聞いて引き返す。ということは、結果的にふたりを結びつけるのは、凶悪で強欲な悪徳刑事たちということにもなる。
もちろん、そんな筋書きはどこにもあったわけではない。突き詰めれば、物語が失われた世界が、言葉も通じない彼らを結びつけるのだ。そして彼らは気まぐれな脇道との分岐点を無事通過する。この分岐点を無意識のうちに設定しているのは島崎である。終盤のバンジー・ジャンプが物語るように、島崎は修羅場をなんとかくぐりぬけようとも、ある一線を越えることなく引き戻されるしかない。この映画では、そんな島崎が設定する分岐点こそが世界の臨界となり、臨界を走り抜けるソヨンと昌也は外部へと踏みだしていくのである。
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