終わりゆく一日
Day Is Done  Day Is Done
(2011) on IMDb


2011年/スイス/カラー/111分/ヴィスタ
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(初出:『終わりゆく一日』プレス特別寄稿)

 

 

時の流れと喪失を鮮やかに
浮き彫りにする普遍的な物語

 

 トーマス・イムバッハ監督の『終わりゆく一日』では、とどまることのない時の流れとそのなかに生じる様々な喪失が独自の映像言語で表現される。

 この映画を構成する要素は、大きく三つに分けることができる。一つは、チューリッヒにあるイムバッハの仕事部屋から眺められる風景の映像だ。そのロフトは、駅舎の裏手、工場地帯のなかにある。窓の外に広がるパノラマに魅了され、そこを仕事部屋にしたイムバッハは、15年以上にわたって風景を撮り続けた。二つ目は、留守番電話に残されたメッセージだ。彼はそれを自分の人生の記録として収集してきた。そしてもう一つの要素として、映画に挿入されるロックやフォークのナンバーを挙げることができる。

 この映画は、イムバッハの自伝的な作品のようにも見える。彼の両親や妻子、友人、仕事仲間などが、不在の“トーマス”に向かって語りかける。メッセージのなかには、『ウェル・ダン』(94)や『ゲットー』(97)という彼の監督作のタイトルも出てくる。映像には、トーマスと家族のホームムービーの断片も挿入される。彼の父親は病に冒され、帰らぬ人となる。彼は子供が生まれた頃から妻との関係が悪化し、崩壊に至る。しかしそれはあくまで留守電のメッセージから浮かび上がる“T.”の物語だ。

 T.という存在は留守電と不可分の関係にあり、留守電から誕生したとも言える。だからこそ留守電の価値が失われていくときには、その存在も揺らぐ。たとえば、この映画の終盤には以下のようなメッセージがある。「この電話機のある所にはいないのね、他の所にかけてみる、つまり携帯に」。「トーマス、今日はお父さんの命日よ。携帯にかけるのは遠慮しようと思って、あなたもそう思ったでしょ」。「電話に出ろよ、そこにいるだろう、いないとは言わせない、留守電にして、君が見えてる、裸でキッチンの方へ行って、また戻ってきた、見てるぞ」。

 留守電以外に携帯という選択肢が生まれ、それに付随して居留守が露見するようになったとき、T.という存在の輪郭は確実にぼやけていく。そんなディテールにも、時の流れと喪失を垣間見ることができる。

 さらに、T.によって見られた風景からも喪失が浮かび上がる。彼は、煙を吐き出す巨大な煙突が大空と地上の結節点となった風景、旅客機が飛び、鳥の群れが舞い、列車が行き交い、光や天候によって常に変化する風景に魅了されている。そんな風景は、映画の終盤に至って急激に変化する。スイスで一番高いビルになる“プライムタワー”の建設が始まり、やがて高さ126mの高層ビルが姿を現す。映画のラストでは、巨大な煙突に代わってこのプライムタワーが結節点となる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/撮影   トーマス・イムバッハ
Thomas Imbach
共犯者 ユルク・ハスラー
Jurg Hassler
編集 ギオン=レト・キリアス、トム・ラベル
Gion-Reto Killias, Tom La Belle
音楽 デイ・イズ・ダン・バンド
Day Is Done Band
 
◆キャスト◆
 
メッセージの声   Tの元パートナー、Tの父、Tの祖母、Tの母、Tの息子、Tの恋人、Tの共犯者、Tのテレビ制作パートナー、Tのスイス銀行員、 Tのサウンドデザイナー、Tの不動産業者、Tの弁護士、Tの友人、 Tの『Ghetto』出演者、Tの映画祭ディレクター、Tの助手、Tの批評家、 Tの昔の教師、Tの映画作家の友人、Tの俳優、Tの女優
Tの声 ジョージ・ヴァイン
画面上の人物 郵便を運ぶ女性、ブラスバンド、子どもたち、作業員たち、消防員たち、 バイク乗りたち、警官、救急隊員たち、ワインを買う人々、 美術学校の学生たち、キスするカップルたち、 自転車乗りたち、庭師、息子たちを連れた父親
アーカイヴ映像の人物 Tの祖母、Tの元パートナー、Tの息子
-
(配給:フルモテルモ×コピアポア・フィルム)
 

 しかし、厳密に言えば変化はその前から表れている。しかもT.の目の前で。プライムタワーは、産業構造の変化にともなって工場地帯が空洞化し、再開発が進むというプロセスを象徴している。T.のロフトを取り巻く工場地帯ももちろんそれと無関係ではない。実際この映画は、工場地帯の変化をリアルにとらえている。

 最初は労働者が働く姿が目につく。しかし、次第に活気が失われ、寂れていく。労働者ではない若者がうろつくようになり、放火のような事件も起こる。やがてジェントリフィケーションの波が押し寄せ、老朽化した建物はおしゃれなスポットに生まれ変わり、身なりのいい人物たちが出入するようになる。つまり、映像もまた時の流れと喪失を描き出していることになる。

 では、この映画に挿入される音楽についてはどうか。すぐに思い浮かぶのは、それぞれの時代と結びつく楽曲を流すことによって、時の流れと喪失を表現するアプローチだ。だが、この作品には当てはまらない。映画の原題“Day Is Done”は、ニック・ドレイクのデビュー・アルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』(69)に収められた同名曲から取られているが、挿入される曲のなかでそれと時代を共有しているのは、シド・バレットの<金色の髪>くらいだ。

 1曲目とエンディングに、同じビル・キャラハンの『サムタイムス・アイ・ウィッシュ・ウイ・ワー・アン・イーグル』(09)に収められた2曲を使っているのは意識してのことと思われるが、その間に流れるアルファヴィルの80年代のヒット曲、ボブ・ディランの80年代前後の3曲、より現代に近いジョン・フルシアンテの曲に、何らかの繋がりがあるとは言えない。むしろ、時代に関わりなく、姿なきT.の内面と呼応する曲をセレクトしていると見るべきだ。だからこそ、オリジナルを使うのではなく、この映画のためにバンドを組み、すべて新たにレコーディングし、統一感を生み出しているのだろう。

 これで映画を構成する三つの要素は明らかになったが、まだ重要なことに触れていない。この映画では、サングラスをした髪の長い女性が歩いていく姿が何度となく映し出される。この女性は明らかに他の人物とは位置づけが違う。筆者には、この映画に盛り込まれた要素がすべて彼女に集約されていくように思える。彼女は、T.をめぐる男女関係も、再開発によって失われていく世界も象徴している。さらに挿入される曲の歌詞のイメージとも呼応する。

 イムバッハのプライベートな世界の断片は、不在のT.とこの女性の存在を通してフィクショナルな広がりを獲得し、時の流れと喪失を鮮やかに浮き彫りにする普遍的な物語になるのだ。


(upload:2013/12/05)
 
 
《関連リンク》
トーマス・イムバッハ監督の公式サイト
『終わりゆく一日』の公式サイト
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