トーマス・イムバッハ監督の『終わりゆく一日』では、とどまることのない時の流れとそのなかに生じる様々な喪失が独自の映像言語で表現される。
この映画を構成する要素は、大きく三つに分けることができる。一つは、チューリッヒにあるイムバッハの仕事部屋から眺められる風景の映像だ。そのロフトは、駅舎の裏手、工場地帯のなかにある。窓の外に広がるパノラマに魅了され、そこを仕事部屋にしたイムバッハは、15年以上にわたって風景を撮り続けた。二つ目は、留守番電話に残されたメッセージだ。彼はそれを自分の人生の記録として収集してきた。そしてもう一つの要素として、映画に挿入されるロックやフォークのナンバーを挙げることができる。
この映画は、イムバッハの自伝的な作品のようにも見える。彼の両親や妻子、友人、仕事仲間などが、不在の“トーマス”に向かって語りかける。メッセージのなかには、『ウェル・ダン』(94)や『ゲットー』(97)という彼の監督作のタイトルも出てくる。映像には、トーマスと家族のホームムービーの断片も挿入される。彼の父親は病に冒され、帰らぬ人となる。彼は子供が生まれた頃から妻との関係が悪化し、崩壊に至る。しかしそれはあくまで留守電のメッセージから浮かび上がる“T.”の物語だ。
T.という存在は留守電と不可分の関係にあり、留守電から誕生したとも言える。だからこそ留守電の価値が失われていくときには、その存在も揺らぐ。たとえば、この映画の終盤には以下のようなメッセージがある。「この電話機のある所にはいないのね、他の所にかけてみる、つまり携帯に」。「トーマス、今日はお父さんの命日よ。携帯にかけるのは遠慮しようと思って、あなたもそう思ったでしょ」。「電話に出ろよ、そこにいるだろう、いないとは言わせない、留守電にして、君が見えてる、裸でキッチンの方へ行って、また戻ってきた、見てるぞ」。
留守電以外に携帯という選択肢が生まれ、それに付随して居留守が露見するようになったとき、T.という存在の輪郭は確実にぼやけていく。そんなディテールにも、時の流れと喪失を垣間見ることができる。
さらに、T.によって見られた風景からも喪失が浮かび上がる。彼は、煙を吐き出す巨大な煙突が大空と地上の結節点となった風景、旅客機が飛び、鳥の群れが舞い、列車が行き交い、光や天候によって常に変化する風景に魅了されている。そんな風景は、映画の終盤に至って急激に変化する。スイスで一番高いビルになる“プライムタワー”の建設が始まり、やがて高さ126mの高層ビルが姿を現す。映画のラストでは、巨大な煙突に代わってこのプライムタワーが結節点となる。
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