涙女

2002年/カナダ=フランス=韓国/カラー/90分/アメリカンヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「Movie Gong」2004年 Vol.28、加筆)

 

 

金のために泣く女が本物の涙を流すとき

 

 プレスのインタビューでリュウ・ビンジェン監督は、こんなふうに語っている。「脚本は撮影許可を得るために映画管理事務所の検閲に送られたが、この映画が社会主義を奨励する作品ではないということで公的に却下されたのだ」。この映画が、中国ではなく、カナダ、フランス、韓国の合作になっているのは、そのためなのだろう。

 『涙女』は、改革開放政策によって変貌し、あるいは荒廃する社会のなかで、生活苦にあえぐ負け組のヒロインが、ひょんなことから勝ち組となる機会をつかむ物語だと、とりあえずはいえる。彼女が活路を見出すのは"哭き女"の仕事だ。哭き女とは、葬儀で遺族に成り代わって深い悲しみを体現し、涙を流し、場を盛り上げる女のことで、中国の地方には、そういう伝統が残っている地域があるという。

 ヒロインのグイは、働きもせずに麻雀ばかりしている夫のゲンと北京に不法滞在し、貧しい生活を送っている。彼女は、同情を引くために隣人の子供を借り、路上で海賊版のDVDを売っているが、警察の取締も厳しく、たいした稼ぎにはならない。そんな彼女は、時を同じくして三重苦に見舞われる。夫が喧嘩で麻雀仲間の片目を失明させて逮捕され、借りた子供の家族が子供を残して夜逃げし、グイ自身も不法滞在が露見し、故郷に追い返されてしまうのだ。故郷に戻った彼女は、昔の恋人で葬儀屋を営むヨーミンと再会し、彼が結婚しているのも承知でよりを戻し、奇妙ななりゆきで哭き女の仕事を始めることになる。きっかけは、治療費を取り立てにきた麻雀仲間を追い払ってしまうような強烈な嘘泣きだった。それを見たヨーミンが哭き女の仕事を思いつくのだ。

 リュウ・ビンジェン監督は、いつも派手な柄物を身につけ、他人を気にせずがむしゃらなグイのキャラクターを生かし、彼女の奮闘を通して社会の変化を巧みに描き出していく。彼女はかつて故郷で劇団に所属していたが、劇団は潰れてしまった。おそらくは、改革開放政策で国からの援助が打ち切られたのだろう。しかしだからといって、故郷に新たな産業が生まれるわけではない。そこで仕方なく北京に出ていくものの、コネもなければ経済力もない彼女や夫が、都市戸籍を得られるはずもなく、不法滞在を余儀なくされるわけだ。

 ヨーミンに勧められて哭き女の仕事を始めたグイは、最初は先輩の哭き女にばかにされるが、トレーニングを重ね、やがて売れっ子になる。しかし彼女は、伝統のなかで先輩を追い抜くのではない。これは単なる推測に過ぎないが、本来の哭き女とは、地域の信仰や慣習と結びつき、卑賤の者が受け継ぐ聖なる仕事だと思われる。グイも卑賤の者といえないことはないが、彼女とヨーミンは、伝統的な仕事をビジネスに変えてしまう。


◆スタッフ◆

監督/脚本   リュウ・ビンジェン(劉冰鑒)
Liu Bingjian
脚本

ダン・イエ
Deng Ye

撮影 シイ・ウェイ
Xu Wei
編集 チョウ・イン
Zhou Ying
音楽 ドン・リイチャン
Dong Liqiang

◆キャスト◆

ワン・グイシアン   リァオ・チン(寥琴)
Liao Qin
リイ・ヨーミン ウェイ・シンクン(偉興坤)
Wei Xingkun

(配給:ミラクルヴォイス)
 


 病院で死にそうな患者を調べ上げ、テレビから誰かが死んだというニュースが流れれば、セックスを中断してでも駆けつける。グイは、哭き方をランク分けし、料金表を作る。そして、葬儀の途中でも時間が来れば、次がつかえているといって立ち去り、喪主から涙が足りないと苦情が出ると、逆切れして殴りかかる。つまり彼女は、生きるために必死になっているうちに、地域の伝統を解体し、競争を勝ち抜く市場経済の権化になっているのだ。

 それでも稼いだ金で幸福が買えればいいが、そうはならない。生活に余裕が出てくるに従って、彼女にはだんだんと自分が本当に必要としていたものが見えてくるが、それがはっきり見えたときには手遅れになっている。映画のラストは、それを見事に物語っている。おいしい仕事であるはずの金持ちの葬儀で、ある事情から悲しみに打ちひしがれる彼女は、本物の涙を流す。悲しみを体現するそんな哭き女のもとには、列席者たちの心付けが次々と集まる。彼女が流す涙と彼女の手からこぼれ落ちていく心付けは、時代や社会に引き裂かれた彼女の心を象徴しているのだ。


(upload:2005/05/02)
 
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