とてもいい話であり、誰もが感動を覚えることだろうが、誰もが同じような感動しか得られない映画でもある。よく言えば非常にまとまっている。悪く言えば、最初から最後までドラマが優位に立ち、ドラマで描けることしか描かれていない。これは、役者がただの操り人形になっているということではない(役者はしっかり演技しているし、なかでも宮地真緒は印象に残る)。そうではなく、人物のキャラクターから細かなエピソードまで、すべてが明瞭な繋がりを持ち、こちらが想像力を働かせることで、その世界が膨らみ、深みを持つような余白や含みがまったくないということだ。では、背後に広がる風景はどうなのかと思われるかもしれないが、明確なドラマの枠組みは、風景までも取り込み、その一部にしてしまっている。
たとえば、マイケル・ウィンターボトムの映画では、登場人物たちがドラマや物語に縛られることがない。ウィンターボトムに初めてインタビューしたとき、彼は物語についてこのように語っていた。「私は一般的な意味での物語というものに観客を引き込むような作り方はしたくない。観客が自分の考えや感情を自由に選択する余地を残しておきたいんだ」。彼の映画では常に風景というものが際立つが、それは主人公たちが、ドラマのなかで風景と向き合うのではなく、まるでそこに放り出されたかのように何の繋がりもなく、ただ向き合っているからなのだ。
この映画には、ウィンターボトムが言うような"余地"がない。そんな作品はたくさんあるが、なぜこの映画でそのことにこだわるのかといえば、父と子を結びつけていくものが、まず何よりも写真であるからだ。写真には、見る者がそれぞれに想像力を働かせる余地がある。写真によって結びつく親子の物語であるならば、そのなかにドラマではなく写真を見つめるような時間があってもよいのではないだろうか。
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