自作自演の作家ナンニ・モレッティは、映画のなかに自分の分身や同名の監督として登場することで、きわめて個人的な視点から社会や時代をとらえると同時に、ユニークな自己分析を試みてきた。新作の『息子の部屋』では、そんなスタンスを半ば封印し、自分と主人公のあいだに距離を置くことによって、彼の分析的な視点をより普遍的なものにしている。半ばというのは、距離を置きながらも、この監督の資質に通じる“精神分析”を生業とする主人公を分析してしまうドラマの図式に、いかにも彼らしい自己言及的な要素を垣間見ることができるということだ。
物語は一見とてもシンプルに見える。突然の事故で息子を失った主人公と母親、姉の3人は、悲しみに打ちひしがれ、ばらばらになりかける。そんな時、息子宛てに一通の手紙が届き、家族が知らないうちに彼が恋をしていたことがわかる。家族はその彼女と対面することで、立ち直りの兆しを見せていく。
また、ドラマの表現スタイルも非常に抑制されている。監督のモレッティは、家族や主人公と患者のやりとりのなかで、悲しみや怒り、苛立ちの感情が剥き出しになる一歩手前でドラマの流れを切り、ドラマの起伏をあえて抑えている。それだけに表面的には淡々としたドラマに見えるのだが、断片的なエピソードの積み重ねからは、主人公を中心とした家族の複雑な心の動きが見えてくる。
主人公の苦悩は、悲しみに沈む家族にさらなる負担を強いる。彼は、生前の息子が自分だけの世界を築きつつある兆候を見せていたことに気づかなかった。それはたとえば、学校でアンモナイトの化石が紛失した問題で、息子が嘘をついていたことだ。精神分析医であるならそんな息子の変化に気づくのは容易いことのはずだが、彼はこれまで少しでも距離を置いて息子を見たことがない。そのために息子の死の責任をひとりで背負い込んでしまうのだ。
そんな主人公を救うのは息子の恋人だが、厳密にいえばそれは、彼女の存在によって知らないうちに息子が成長していたのを確認するということではない。実は彼女は連れの男の子とヒッチハイクで旅行をしている途中で、主人公は家族とともにふたりを近くのスタンドまで送る。ところが、ヒッチハイクする車を待っているふたりの姿を見るに見かねて、自分で夜通し車を飛ばし、彼らが目指すフランスとの国境まで送っていってしまう。
精神分析医として常に確実性を生きてきた彼は、ヒッチハイクという不確実性に身を委ねるふたりの姿に息子を見出し、徹夜のドライブというむちゃな行動を通して息子の世界に触れる。そして、自分を責めることは息子の世界を認めていないことだと悟り、その死を受け入れるのである。
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