ベルトラン・ブリエ監督の『メルシー・ラ・ヴィ』に主演しているシャルロット・ゲンズブールとアヌーク・グランベール。この個性的なふたりの女優の素晴しいコントラストは、間違いなくこの映画の見所のひとつになるだろう。
この映画には、コメディやらロード・ムーヴィー、戦争もの、SFを思わせるタイム・パラドックスなど様々なジャンルが雑多に盛り込まれ、ふたりの娘は、時間の壁や現実と劇中劇、異なるジャンルなど、至る所に出現する境界を飛び越えていく。そうした空間やシチュエーションのめまぐるしい変化は、この娘たちの対照的な存在感を浮き彫りにしていく。
シャルロット・ゲンズブールは、どんな空間に紛れ込んでも常に“少女”としてそこにいる。これに対して、アヌーク・グランベールは、シチュエーションによって別人のように変化する。少女のように見えるときもあれば、成熟した女であることを痛感させることもあり、男を挑発しまくる娼婦にもなり、また、母親のような母性をにじませることもある。
ふたりが一緒にいても、シチュエーションによってその関係が違ったものに見えてくるのが面白い。ある空間では、グランベールはゲンズブールと同じような無垢な少女に見え、背景が変われば、ゲンズブールにいけないことを教える悪友になり、彼女に大人の世界を垣間見せる熟女になり、彼女を優しく包み込む母親にもなる。
変化するシチュエーションのなかで、女であることの豊かさを振りまくグランベールは実に魅力的だ。しかも、常に変化しているにもかかわらず、彼女はこの映画のなかに一貫して“天使”として存在している。そこには、奇妙な転倒があるといえる。
普通に考えるなら、ゲンズブールのような無垢な少女が天使的な存在になり、世俗に染まったグランベールは、どろどろした人間関係や愛憎に呑み込まれ、身動きがとれなくなっていくところだろう。しかし、この映画のふたりの関係は、それとはまったく逆の力学のなかにある。それがなんとも愉快だ。
その力学は、冒頭のシーンからすでに表われている。この映画は、花嫁衣裳をまとったグランベールが男に捨てられるところから始まる。彼女の様子をしばらく見ているだけで、男に惚れては捨てられるような関係を繰り返しているような娘であることがわかる。 |