キェシロフスキ監督の映画『偶然』では、主人公ヴィテクが、ワルシャワに向かう列車に飛び乗ろうとした結果から枝分かれする三通りの運命が描きだされる。彼は、列車に乗れるか、警備員に制止されるか、乗りそこなうかによって、共産党、地下出版を行う非合法組織、医者という異なる使命を見出し、異なる女性と出会い、異なる人生を歩んでいく。そして最後に、奇しくも同じ日の同じ時刻に、異なる目的で空港からパリに旅立とうとする。
この映画を観ながら、ピーター・ホーウィットの『スライディング・ドア』やトム・ティクヴァの『ラン・ローラ・ラン』を連想する人もいることだろう。『スライディング・ドア』では、ヒロインが閉まりかけた地下鉄のドアをすり抜けるか、乗りそこなうかによって、彼女の二通りの運命が描かれ、『ラン・ローラ・ラン』では、生か死かの窮地に陥った相棒と彼を助けようとするヒロインの三通りの運命が描かれる。確かに、人間の運命というものをとらえようとする発想や構造には共通点がある。しかし、『偶然』が描きだすのは、この二本とは似ても似つかぬ世界である。
キェシロフスキは、政治的な題材を扱ったドキュメンタリーから出発し、劇映画へと進出した。彼はその理由を、愛や死についての映画を作りたかったからだと語っている。そんな彼の初期の劇映画をたどっていくと、ドキュメンタリーに起因する社会的、政治的な視点から、次第に愛や死という個人的な視点へと移行していく過程が見えてくる。
76年の『傷跡』や79年の『アマチュア』では、主人公の社会的、政治的な立場が、主人公と家族の個人的な関係よりも際立っている。しかし、84年の『終わりなし』では、社会的、政治的な視点と個人的な視点が逆転している。この映画では、政治的な問題を扱う裁判の行方と、夫を亡くした妻と死後もこの世に留まる夫をめぐるドラマが、並行して描かれるが、逆転といっても、単純に後者に焦点が絞られていくということではない。
妻は夫を亡くしてから、彼を愛していたことに目覚めていく。彼女が男と行きずりの関係を持ったり、催眠療法で夫の記憶を消し去ろうとするほどに、現在のなかに夫の存在が鮮明になるのだ。この過去への眼差しは、裁判の行方と絡んで重要な意味を持つ。双方の妥協によって決着する裁判は、もはやいずれの政治的立場にも勝利などなく、政治に対してすべての個人が敗北していることを物語る。それゆえ、自己の欲望に忠実に人生を振り返り、愛を完結しようとする妻の存在が特別な輝きを放つことになるのである。
『偶然』のドラマは、こうした政治的な視点から個人的な視点への移行を踏まえてみると、さらに興味深いものとなるはずだ。この映画にも、政治に対する個人の敗北がある。共産党員となった主人公は、党に密告者として利用され、恋人を失ってしまう。地下活動に身を投じ、キリスト教に入信した場合も、地下出版局が当局の手入れにあったことから疑いをかけられ、組織を追われる。これに対して、大学の休学を撤回して医学の道に進んだ彼は、思い通りの人生を歩んでいく。だが、その先には予想だにしない悲劇が待ち受けている。キェシロフスキは、あまりにも残酷な運命の皮肉を描いているように見える。 |