コドモのコドモ
Child by Children   Kodomo no kodomo
(2008) on IMDb


2008年/日本/カラー/122分/ヴィスタ
line
(初出:「シネミライ」2008年10月28日)

 

 

内なる自然に目覚めていく子供たち

 

 小学5年生の春菜は、幼なじみの同級生ヒロユキと興味本位でした“くっつけっこ”という遊びで妊娠する。彼女の家族や担任の教師はそれに気づかず、お腹は確実に大きくなっていく。春菜と同級生たちは、団結して出産という難事を乗り越えようとする。

 小学生の妊娠と出産を描いた萩生田宏治監督の『コドモのコドモ』には、抵抗や戸惑いを覚える人もいるだろう。萩生田監督はそんな物語を、単純に現実のこととして描いているわけではないし、安易なファンタジーとして処理しているわけでもない。この映画の導入部、具体的には春菜の下校から家族の夕食に至るまでのドラマは、実に多くのことを物語っている。

 まず、映画の舞台と春菜の家族の生活が見えてくる。学校を出て町を離れると、大きな川があり、緑が増える。やがて住宅が姿を消し、農地に変わる。春菜の祖父母は農業を営んでいる。だが、彼女の家が農家というわけではない。彼女の父親は農業を継がず、工場で働いている。夕食のときに祖父は、近所の老人が国道沿いの栗林を売った話をする。そこはやがて宅地になる。祖父は、宅地開発のために土地を売っている老人たちを「金の亡者」と表現する。

 この物語は、現代的な生活と自然がせめぎあう地域で展開していく。そして映画の導入部では、そのふたつの世界が、別のかたちでも表現されている。

 現代的な生活では、情報やモノがあふれている。映画の冒頭、春菜は教室のなかで、仲良しの珠と真由と、姉にだまって持ち出してきたファッション誌を見ている。彼女が求めているのは、白にオレンジのラインが入ったスニーカーだ。そして彼女が帰宅すると、姉とその友だちが、庭でダンスの練習をしている。春菜もそこに加わろうとするが、姉は入れてくれない。しかも、姉の友人が、春菜にとっては特別なものであったはずの白にオレンジのラインが入ったスニーカーをはいていることに気づく。

 子供は目上の人間を模倣するようにして、大人になっていく。春菜がダンスの練習に加わっていれば、その後のことは起こらなかったかもしれない。仲間外れにされた彼女は、ヒロユキを呼び出して森林公園に行き、くっつけっこをする。それはもちろん直接的に描かれることはない。その代わりに、見事な巨木が証人となる。ファッション誌やスニーカーやダンスの練習は、現代的な生活の領域にあり、春菜の妊娠に繋がる行為は自然の領域にある。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   萩生田宏治
脚本 宮下和雅子
原作 さそうあきら
撮影 池内義浩
編集 大重裕二
音楽 トクマルシューゴ
 
◆キャスト◆
 
持田春菜   甘利はるな
八木先生 麻生久美子
春菜の母 宮崎美子
春菜の姉 谷村美月
春菜の祖母 草村礼子
春菜の父 斉藤暁
春菜の祖父 榎木兵衛
鶴巻ヒロユキ 川村悠椰
ヒロユキの母 安部聡子
ヒロユキの父 光石研
-
(配給:ビターズ・エンド )
 


それを踏まえて観るのと、ただ表面的な物語を追うのとでは、まったく違う映画になる。このふたつの領域の対置は、登場人物たちがいかにして世界を本当に共有することができるかという問題にかかわってくる。

 たとえば、子供たちが自分らしさを失っていると考え、性教育に乗り出す八木先生は、セックスはコミュニケーションだと説明する。だが彼女はそれ以前に、子供たちとコミュニケーションがとれていない。世界をまったく共有していないからだ。同級生たちの世界もばらばらだ。

 しかし、内なる自然が子供たちを変えていく。自然は大人と子供を分けない。春菜は、情報やモノではなく、内側から自分という存在を感じる。同級生たちもそこに、共有することができる確かな世界を見出す。この映画は、子供の側と同時に、自然の側から現代社会を見直そうとする。人と人を繋ぐ内なる自然に鈍感になり、合理化、情報化、画一化されていく現代的な生活に完全に取り込まれてしまえば、本来の人間性が失われるということだ。


(upload:2009/06/06)
 
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp