しっかりと身体を鍛え上げ、伝説のボクサー、森岡栄治の10代から50代までを演じた武田真治。物語の語り手でもあるおてんばな娘の治子を演じた藤本七海。そして、栄治の愛人となって彼の家に転がり込んでくるホステスの裕子を演じた広末涼子。彼らの演技がいずれ劣らず素晴らしい。
だが、映画全体の巧みな構成がなければ、その好演がここまで生きることはなかっただろう。森岡の人生は、治子の視点を通して再構築されていく。彼は、オリンピックでメダルは獲得したものの、プロのリングでは花を咲かすことができず、第二の人生でも挫折を繰り返す。治子にとっては、「アホでスケベなエロ親父」なのだが、ある疑問に最後に答えが出ることで、それが変わる。
父はボクシングが好きだったのか。そんな治子の疑問は、巧みな構成によってひとつのテーマにもなっていく。たとえばこの映画では、森岡の人生が、さり気なくマラソンの円谷と対比される。その円谷は自殺した。では、森岡の人生にとってボクシングとは何だったのか。
その答えは、ラストで明らかにされるが、実はそれ以前に猫が語っているともいえる。この映画では、治子が猫を拾うだけではなく、主人公たちを象徴するかのように猫の映像が挿入される。そして確かに、主人公たちはそれぞれに猫のように見えてくる。彼らはみな、主人に尻尾を振らない。しなやかにしたたかに自分の道を歩んでいく。それが何とも小気味よくて、清々しいのだ。 |