映画『コンセント』でどうしても引っかかるのが映像と言葉のバランスだ。ヒロインのユキには引きこもりの兄がいて、ある日、ひとり暮らしをしていたその兄が餓死していたことがわかる。ユキが、まだ死臭が漂う兄の部屋を訪ねてみると、なぜか掃除機が“コンセント”に繋がれたままになっていた。それ以来、彼女は臭覚の異常に悩まされ、周囲の人間から死の臭いを嗅ぎとるようになる。
この映画は、言葉では説明しがたい世界や感覚を扱っている。それは映像で表現するのにふさわしい題材であるように思える。ところがこの映画では、映像はすぐに言葉に乗っ取られてしまう。かつてユキを指導し、彼女と男女の関係にもあった教授、シャーマニズムを研究するユキの同窓生とその友人の精神科医たちが登場してくると、謎をめぐる説明的な対話が延々とつづき、まるでレクチャーでも受けているような錯覚におちいる。
最初に映像ありきで、それに言葉が付随するというのではない。最初に映像ありきは冒頭だけで、すぐに最初に言葉ありきにすりかわってしまう。対話が延々とつづくために、映像からなにかを仕掛ける余地がなくなり、映像は言葉に付随していかざるをえない。謎も神秘も言葉によって増幅され、言葉に支えられるしかない。たとえば、同じように言葉で説明しがたい世界や感覚を扱っている黒沢清の『CURE』でも、メスマーの催眠暗示をめぐってそれなりに説明的な言葉が費やされているが、しかし映像は常にその言葉を凌駕している。そんな『CURE』と比べると、『コンセント』の世界がいかに言葉に支えられ、映像が力を持っていないかがよくわかる。
但し、もしこの映像と言葉のバランスが意識的なものであるとしたら、そこには現代が皮肉なかたちで露呈しているともいえる。つまり、現代には言葉によって生みだされ、言葉に支えられて、それを演じるような精神性しか残されていないのかもしれないということだ。
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