映画『GO』では、歴史やイデオロギーが確実に崩壊しつつある時代のなかで、在日韓国人の若者杉原が、既成の価値観や形骸化した制度に縛られることなく、自分の道を突き進んでいく姿が描きだされる。彼の父親秀吉は、在日朝鮮人でマルクスを信奉する共産主義者だったが、3年前に突然、"堕落した資本主義の象徴"であるハワイに行くと言いだし、国籍を朝鮮から韓国に変えた。そして、韓国人となった杉原はといえば、ハワイではなく、民族学校から日本の普通高校に進学する道を選ぶ。このドラマでは、そんなふうに未来に対する選択肢を広げていく杉原の視点を通して、日本の社会が異化されていくことにもなる。
映画の原作は金城一紀の直木賞受賞作だが、小説と映画ではそのスタンスにいくらか違いがある。
小説では、韓国人や朝鮮人と日本人との境界を独自の視点でどこまでも突き詰めることから、世界が広がり、印象的なドラマが紡ぎ出される。DNAをめぐる日本人論、ジャズやクラシック、スプリングスティーンなどの音楽、ラングストン・ヒューズやマルコムXの名前やメッセージが、境界に多面的な光を当て、揺さぶりをかける。ヒロイン桜井の父親が、黒人やインディアンをアフリカン・アメリカン、ネイティブ・アメリカンと呼びながら、中国人や韓国人に偏見を持っているところには、痛烈な皮肉が込められている。また、チャンドラーの「長いお別れ」を引用するだけでなく、疎外されたコミュニティのなかで、対立しながらも心の底では通じ合っている若者同士の関係を、ハードボイルド・タッチで描くあたりには思わず泣けてくる。
もちろん映画にもそういう要素は盛り込まれている。しかし、映画の方は、韓国人と日本人の境界よりも、登場人物たちの個性や繋がりを過剰さとポップなセンスで描くことに比重が置かれている。たとえばそれは、杉原の家族の関係である。小説では、境界をめぐって向こう側からあの手この手の鋭い揺さぶりが繰り出されるが、映画は、極端に言えばこの家族の在り方そのものを日本の社会にぶつけている。
父親の秀吉は元プロボクサーで、杉原が悪さして警察につかまると、警官が度肝を抜かれるほど息子をボコボコに殴り、「今回も家裁行かなくて済んだぞ、感謝しろありがとうは?」とうそぶく。母親の道子は、家出を切り札にしてその凶暴な父親を手なずけ、杉原と仲間たちをガキ扱いし、有無を言わせない。杉原は母親には頭が上がらないし、父親にはボコボコにされっぱなしだが、しかし暗黙のうちに、彼らに導かれ、支えられ、広い世界へと踏みだしていく。荒っぽい関係ではあっても、彼らは必然によって結びついているのだ。
歴史や伝統、イデオロギーといった基盤もなく、消費社会に組み込まれた家族から確実に失われていくのは、家族を構成する個と個を結びつける必然だ。消費社会は画一化された幸福のイメージをばらまき、家族は、内なる必然によって家族であろうとするのではなく、イメージを生きることで家族であろうとする。しかし、どっちを見ても同じ画一的な幸福は、自己を相対化し、現実を自覚的にとらえる視座をもたらす外部を消し去り、閉塞していくしかない。 |