映画『KYOKO』は、監督村上龍がアメリカに乗り込み、ロジャー・コーマン製作総指揮のもとに現地のスタッフ、キャストと組んで完成させた新作である。ロジャー・コーマンといえば、低予算作品を通して多くの才能を発掘してきたインディペンデント映画界の神様的存在だが、『KYOKO』は彼のそんな神話に相応しい作品ではないかと思う。
というのも、この映画は、移動という冒険を通して日本人の娘が成長する姿を描くロード・ムーヴィーの体裁をとりながら、その向こう側にもっと奥深い野心をみなぎらせているからだ。
基地の街で育ったヒロインのキョウコは、まだ幼い頃にダンスを教えてくれたGIでダンサーのホセに逢うため、ニューヨークへと旅立つ。ところが、苦労の末に再会したホセは、AIDSの末期で脳を蝕まれ、キョウコのことを思いだすこともできない。そのホセがマイアミに暮らす母親に会いたがっていることを知った彼女は、
いつ最期の瞬間がやってくるかもわからないホセを、薬品や器具を積んだ車に乗せ、マイアミに向かってハイウェイを南下していく。
ひたすら南に向かうこの彼らの旅には、多様な世界の広がりがある。たとえば、キョウコはこの旅の途上で、占いをするインディアンや手癖は悪いが憎めない黒人少年、人種偏見のある南部の警官、南部の富豪の白人夫妻などに次々に出会い、異なる価値観から自己を見直す。あるいは、アメリカにやってきて初めてホセがキューバ系であることを知ったキョウコにとって、
これは、彼女の支えとなったダンスのルーツに向かう旅ともなる。しかし、もっと印象的なのは、この旅のなかでAIDSウイルスとダンスのイメージが深く結びついていくことだ。
キョウコをホセのもとに導くのはダンスである。しかし、彼らの旅で現実的にふたりを結びつけているのは必ずしもダンスではない。記憶が混乱し、確実に失われつつあるホセにとって、キョウコは、動くこともままならない自分をマイアミまで運んでくれるとてもいい人にすぎない。しかも彼は、キョウコのことをエレーナと呼ばせてほしいと頼み込む。
それは彼が子供のころに優しくしてくれた娘の名前だ。その頼みを受け入れるキョウコは、いい人どころか彼の世界に存在していないに等しい。これに対して、エレーナとなったキョウコは、彼に自分の存在を理解してもらおうとはせず、黙々と車を走らせ、決まった時間に彼に点滴を打つ。
極端な言い方をすれば、彼らを結びつけているのはウイルスである。しかもこのウイルスは、モーテルの宿泊を拒否されるというような旅の重荷になるばかりではなく、警官の嫌がらせを逃れる一助になったり、キョウコを窮地から救うのに大きな役割を果たすことにもなる。この映画では、そんなふうにして、ウイルスというものの存在がきわめて自然なかたちでドラマに絡み合っていくのだ。
そして、ふたりの旅が終わりに近づいたとき、彼らが作る空間のなかに定着したウイルスの絆が、ある出来事をきっかけにダンスの絆へと反転する。そんなウイルスからダンスのイメージへの鮮やかな変容が、この一見ストレートなロード・ムーヴィーの向こう側に魅力的な世界を切り開いていく。小説『KYOKO』には、ホセを語り手としたこんな表現がある。
「ボクはキューバからダンスを運びアメリカを経て日本で小さな女の子にそれを植えつけた、やってることはウイルスと同じだ」。この映画には、そんな視点が、言葉を排除したイメージで表現されている。 |