彼らの間には、日本と韓国をめぐる様々なコントラストがある。富田は大義に殉ずる道を閉ざされ、不満のやり場のない毎日を送っている。金車雲はいかなる犠牲を払っても至上命令を遂行しようとする。ふたりは次第に接近していく。一方、韓国語が話せず、日本の社会からも疎外され、居場所を失っていた金甲寿は、金大中と行動をともにするうちに使命感に目覚めていく。
そこで、もしこの映画が、彼らの対照的な立場をさらに強調するようにドラマティックな演出を試みていたなら、歴史を色濃く滲ませる作品になっていたことだろう。しかし阪本監督は、主人公たちの立場に寄り添うのではなく明確な距離を起き、彼らの関係や行動を冷徹なタッチで描き出していく。その結果、歴史的な空気は次第に薄れ、組織や社会に対する個人の立場ではなく、個人の存在そのものが際立ち、内面的な葛藤のドラマが現代に通じる広がりを持つようになる。
たとえばマイケル・チミノの映画では、文化的、社会的な背景が異なる人間同士の軋轢が常に物語の出発点にあるが、それは次第に純粋な個人と個人の情念の衝突へと変わっていく。『KT』における阪本監督の演出は、そんなチミノ作品のダイナミズムを想起させる。
ただ命懸けで至上命令を遂行しようとしているかに見える金車雲は、成功の報酬がもたらすであろう家族の幸福を思い描いている。朴政権下で拷問にあい、日本で暮らす李政美に出会った富田も、大義よりも個人的な次元で心が揺れるようになる。だからこそ、富田と金車雲の間に奇妙な友情が成立し、また拉致に直接関わるにあたって、富田は金車雲に拷問をしたことがあるかどうかを確認しようとするのだろう。そして、日本を憎む母親や日本人の恋人の狭間で、これまで自分が見えなかった金甲寿は、使命感を持つだけでなく、自分自身がはっきりと見えてくる。
拉致事件そのものは、原作にほぼ忠実に展開していくが、映画では、こうした個人的な葛藤が掘り下げられ、葛藤から導き出された行動が、見えない力によって闇に葬られ、あるいは打ち砕かれていく。あくまで歴史を描き、そこに日本も引き込みながら、同時に歴史に縛られない人物のドラマを作り上げていく。そこに『KT』の魅力がある。
但し、富田と李政美の心情については、筆者にはもうひとつはかりかねるところがあった。富田は金車雲から受け取った小切手を彼女に渡そうとするが、その金は彼女を冒涜することにもなりかねない。さらに、富田が事件に加担することは、政美との別れを意味するはずだが、事件後、彼は彼女と暮らす道を選ぼうとする。だが、彼女がそれを受け入れられるとはとうてい思えない。あるいはそれは、彼のなかで叶えられなかった夢を象徴しているのかもしれない。
|