確かにそれは芸術と見ることができる。哲学教授は、磔刑の痛みを通して、書物を肉体化、人間化しようとした。彼が肉体を強く意識していることは、フラッシュバックで浮かび上がるエピソードからも読み取れる。事件の前に彼は、宗教的な救済に関わるインド人の女子学生の問いかけを、頭ではなく肉体で受け止めようとする。それは、図書館の奥に陣取る司教に対する反発を意味してもいる。
デイヴィド・B・モリスは『痛みの文化史』のなかで、「喜劇と痛みは両者とも、肉体を共通の背景として分かちあっている」と書いているが、キリストさんは、生身の肉体で人々と触れ合うことによって、痛みを持つ彼らに笑いをもたらす。老齢の司教はおそらくそんな笑いを許さないだろう。
キリストさんと老齢の司教の関係は、筆者にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を思い出させる。この物語に登場する盲目の文書館長ホルヘは、なぜアリストテレスの喜劇論を恐れたのか。
「その書物からは、理想郷と変わらぬ豊かさを人間がこの地上に願ってもよいとする思想が、導き出されかねない」「何しろ教父たちは、あくまでも、大衆を永遠の生へと導き、胃袋や下腹部や食物や汚れた欲望から彼らを救い出さねばならないのだ」「もしもまた贖罪の図像を用いて忍耐づよく救済の方向へ進む努力を忘れたり、尊ぶべき聖者の図像をことごとく逆転させて解体させる性急な方向へと転ずるようなことがあれば(後略)」
キリストさんは、ホルヘが、そして老齢の司教が恐れる世界を切り開いた。そして、その世界に導かれた人々のなかに、痛みと笑いとともに生きつづけるのだ。
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