マイケル・クリストファー監督の『ポワゾン』は、サスペンス小説の巨匠ウィリアム・アイリッシュが47年に発表した『暗闇へのワルツ』を映画化した作品である。アイリッシュの本名はコーネル・ジョージ・ホプリー・ウールリッチで、彼はコーネル・ウールリッチ、アイリッシュ、ジョージ・ホプリーという名義を使い分けた。
ミステリ作家として30年代の半ば頃からパルプ・マガジンに短編を発表するようになり、40年代にその才能を開花させた。40年にウールリッチ名義で発表した長編『黒衣の花嫁』を皮切りに、その『黒衣の花嫁』に始まる“黒のシリーズ”、アイリッシュ名義の『幻の女』『暁の死線』『暗闇へのワルツ』、ホプリー名義の『夜は千の目をもつ』など、力作を次々と発表したのだ。
映画化された作品も少なくない。ヒッチコックの『裏窓』やトリュフォーの『黒衣の花嫁』と『暗くなるまでこの恋を』が有名だが、他にもアメリカのフィルム・ノワールの全盛期にあたる40〜50年代に、数多くの作品が映画化されている。
アイリッシュ(ここでは便宜的にこの名義に統一する)が、ミステリの歴史のなかに切り開いた独自の世界はいまだに異彩を放っているし、新鮮さも失われていない。しかし、その魅力を短い言葉で端的に表現するのはなかなか容易なことではない。
たとえば、彼の代表作である『幻の女』を振り返ってみよう。主人公は身に覚えのない妻殺しの容疑で逮捕され、死刑を宣告される。彼は妻が殺害された時刻に、偶然出会った女と過ごしていたが、女は忽然と姿を消してしまう。ふたりを目撃していたはずのバーやレストラン、劇場の従業員は、彼がひとりだったと証言する。そこで、死刑執行の日が近づくなか、主人公の親友や彼の犯行に疑念を抱く刑事が必死で“幻の女”を追い求める。
この作品には、いわゆる本格推理もののファンを唸らせる鮮やかなどんでん返しと謎解きがあるが、それはアイリッシュの魅力の一部でしかない。それから、死刑執行の日が刻一刻と迫る不安と緊張。このサスペンスの素晴らしさは、彼のもうひとつの代表作『暁の死線』にも通じる。この小説では、ある晩偶然に出会った若い男女が、夜が明けるまでに殺人事件に巻き込まれた彼の無実を証明することを余儀なくされる。各章の冒頭には、時刻を示す時計の絵が挿入され、緊張感を盛り上げる。追いつめられていく人間の克明な心理描写や息詰まる切迫感は、サスペンスの巨匠ならではの魅力が存分に発揮されている。
しかしそれがアイリッシュのすべてではない。このふたつの小説では、手がかりを求めてニューヨークを彷徨う人物のドラマを通して、都市の夜を彩る風俗や闇にうごめく人々の生態、孤独や不安、欲望などが浮き彫りにされていく。現代では小説の世界で、ノワールやパルプ・ノワールという言葉が持てはやされているが、アイリッシュはそのルーツのひとりだといえる。 |