家族を背負い、日常生活に埋没した主人公ミシェルのかつての同級生を名乗り、彼を救いのない地獄に引き込むかに見えて、まったく予想もしないかたちで創作の道に導いてしまうハリー。一体この男は何者なのか?
最高に親切で、モラルが完全に欠落した友人ともいえるし、人間を束縛する日常生活を憎悪し、本性の解放を説く伝道師、快楽だけを求める徹底した合理主義者ともいえる。あるいは『ファイト・クラブ』のように、過度の抑圧が生み出すもう一人の自分なのかもしれない。
しかし、この映画に本当にはまってしまった観客にとっては、この男の正体など、どうでもいいものになっているはずだ。なぜならこれは、ハリーを触媒として、日常生活と人間の創造性との関係を、まったくユニークな視点で描き出す映画であるからだ。表面的には異色のスリラーとかブラック・コメディに見えるが、本質は人生に対する鋭い洞察に満ちた非常に正統的な作品なのである。
この映画でミシェルが直面するように、家族との平穏な生活と創作はなかなか両立し得るものではない。創作活動を持続するためには、両親や妻子との関係や生活を犠牲にしなければならないことも多々ある。不安定になり、追いつめられ、家族を裏切るような感情に駆り立てられるとき、ミシェルはインスピレーションを得て、それを膨らませていく。見方を変えれば、それは両立しないのではなく、安定があるからこそ不安定もあるように、密接に結びついてもいる。
人が創作で食べていくためには、もちろん才能が必要になるだろう。しかし決してそれがすべてとは言い切れない。若い頃は誰もが夢や希望を持つが、現実の壁にぶつかり、将来に具体的な不安を覚え、安定した生活を求めるようになる。そして、才能がなかったのだと自分を納得させるが、本当は才能の有無以前に、生活と創作が両立しないと割り切ってしまっているのだ。
そんな現実から、創作に関する別な考え方が浮かび上がる。創作とは、家族を愛し、安定した生活を求めながら、同時に心のどこかで日常を憎み、家族を裏切り、モラルを捨てられる冷酷さや面の皮の厚さを持続できる能力を意味する。このような創作も間違いなく存在する。それをユニークなアプローチで証明するのがこの映画なのだ。
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