第23章 ゲイの浸透と新しい家族の絆
――デイヴィッド・レーヴィット、A・M・ホームズ、マイケル・カニンガム


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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■少年はゲイの父親を受け入れられるか―ホームズ『Jack』■■

 これから取り上げる三本の長編小説は、この短編「テリトリー」のように、家庭小説とゲイ小説が折り重なるように展開し、家族の新しい絆を探し求めていくことになる。

 ただし、こうした発想が、必ずしもゲイの作家ばかりから出てくるわけではない。ここで最初に取り上げる『Jack』は、女性作家A・M・ホームズの作品である。ちなみに、『Jack』の物語は、第13章で取り上げたレーヴィットの短編「犠牲者」に設定がよく似ている。

 小説のタイトルになっているジャックというのは、物語の語り手の男の子の名前である。ジャックは十代前半で、典型的な郊外に暮らしている。そして、ごく平凡なアメリカン・ファミリーの生活を送っているかのようにみえたが、突然、両親が離婚し、父親が家を出ていってしまう。それからしばらくしてジャックは、父親から彼がゲイであることを告白される。父親は、昔のルームメイト=恋人のボブといっしょに暮らしていたのだ。

 著者のホームズは、レーヴィットとほぼ同世代だが、レーヴィットに比べるとはるかにポップなセンスを持ちあわせている。しかもただポップなだけではなく、そのセンスにはいささか歪みがある。たとえばこの小説では、ジャックが映画マニアという設定になっているが、そんなジャックは、彼にクルマの運転を教えてくれる父親の首の動きを『エクソシスト』のリンダ・ブレアにたとえたり、両親が突然他人になってしまったような印象を表現するのに『SF/ボディ・スナッチャー』を引用する(この一風変わったホームズのセンスについては、彼女の短編集『The Safety of Objects』を取り上げる第25章であらためて触れる)。

 そして、ゲイの父親という現実に遭遇して悩むジャックの姿も、ホームズらしいユーモアをまじえながら綴られていく。彼はひとりで部屋にこもり、歴史的にみて“おかま”が“父親”であるはずがないと考えこむ。

 
《データ》
 
Being Homosexual: Gay Men and Their Development by Richard A. Isay●
(Avon, 1989)
 
Jack by A. M. Homes●
(Vintage Contemporary, 1989)
 
『愛されるよりなお深く』
デイヴィッド・レーヴィット●
幸田敦子訳(河出書房新社、1991年)
 
『この世の果ての家』
マイケル・カニンガム●
飛田野裕子訳(角川書店、1992年)


 この小説のなかで思わず笑ってしまうのが、現実に無頓着な彼の親友マックスとのあいだで、ゲイの父親をめぐってかわされるこんな会話だ。

 「おかまならどうだっていうの? 関係ないよ」とマックス。
 「ルームメイトのボブと寝ているんだぞ。いっしょに暮らしているんだ」ぼくは、マックスとぎゃふんといわせたかった。
 「ぼくだって、うちの犬といしょに寝てるよ」とマックス。
 「犬とセックスするのか?」
 「おまえ、ビョーキだよ」

 『Jack』は、シリアスで可笑しくて、ときにグロテスクな小説だが、ユーモラスな展開のなかで物語のポイントはしっかり押さえられている。

 父親の告白で内心傷ついているジャックは、これまで何とも思わなかった“普通”であることを、ひどくありがたいことのように思いはじめる。そこで、きわめて普通に見えるマックスの家庭、そして彼の母親に強い憧れを感じるようになる。

 そんなふうにして、ジャックのなかで健全なアメリカン・ファミリーとゲイの絆というものが、対比されていくことになるわけだ。

 ところが、ジャックが、憧れのマックス一家に連れられて旅行をしたとき、彼はマックスの両親が激しく争っているのをかいま見てしまい、そこに深い亀裂があることを知る。その一方で今度は、父親の恋人のボブとも対面するが、赤いスリッパを履いていることを除けばけっこう“ノーマル”なようだと、ひとりで納得していく。こうしてジャックは、しだいに先入観ではなく、自分の目で現実との距離をはかることができるようになっていく。

 そして突然、ジャックは、自分が独立した個人であること、これまでは母親のジャックであったり、父親のジャックであったり、友人の家庭のジャックであったことに気づくのである。

 ホームズは『Jack』のなかで、少年の率直な視点をとおして家族の意味を問いなおすと同時に、少年の魅力的な成長の物語をつくりあげているのだ。ちなみにホームズは、この小説によって、ゲイのメッカ、クリストファー・ストリートから賞賛(「この数年で、最も才能豊かな作家」)を浴びたということである。

■■都市と郊外をめぐる革命的行為――レーヴィット『愛されるよりもなお深く』■■

 レーヴィットの短編集『ファミリー・ダンシング』が、崩壊や変化のはざまで未来が見えずに手さぐりしている家族の肖像だとすれば、彼の長編『愛されるよりなお深く』(89年)は、その未来へと一歩踏みだす作品といっていいだろう。

 この作品にはまず、ほとんど崩壊している家庭があり、そしてそんな家庭環境のなかで成長した子供たちがつくる新しい家族の絆がある。

 母親のルイーズは、何度かの癌の再発によって死の予感におびえる毎日を送り、さきほどの「テリトリー」に出てきたキャンベル婦人のように、まさに夫に、子供たちに、そして歴史に裏切られたと感じているような人物だ。というのも、父親のナットは、神経質でヒステリーぎみの母親についていけず、浮気をしている。ふたりには娘と息子がいるが、彼らは両親が予想もしなかった人生を歩んでいる。

 娘のエイプリルは、反戦のフォーク・シンガーにしてフェミニストとなり、レズとしての性(生)を選ぶ。一方、息子のダニーは、ゲイであることを両親に告白し、両親が暮らす西海岸を離れて、東海岸で恋人とともに郊外の生活を送っている。そして、物語の展開のなかで、アメリカ中をツアーする生活を送るエイプリルは、人工授精によって子供をみごもる。

 この小説の登場人物のなかで、ここで特に注目したいのは、母親のルイーズと息子のダニー、そしてダニーといっしょに暮らしている恋人ウォルターの三人だ。彼らの立場や関係は、「テリトリー」のキャンベル夫人とニール、ウェインを発展させたもの、あるいは、この三人のその後とみることができる。

 というのも『愛されるよりなお深く』の三人もまた、それぞれの“テリトリー”といえるものが、意識的に描きわけられているからだ。しかも、それらのテリトリーは、短編「テリトリー」のときのように単純な関係ではなく、三人それぞれの微妙な関係と結びつき、レーヴィットがこの部分を掘り下げることに力を注いでいるのがわかる。そして、このテリトリーはまた、ある種の矛盾をはらんでもいるのだ。

 ダニーとウォルターは、マンハッタンから一時間ほどのところにあるニュージャージー州グレシャムで郊外の生活を送っている。短編「テリトリー」のように、ゲイのカップルが郊外という母親のテリトリーを訪問するのとはわけが違う。完全にテリトリーを越境してしまい、従来とは逆の立場に立っているのである。

 これは第13章でもその一部を引用しているが、ダニーは郊外の暮らしについて、こんな考えを持っている。

 七〇年代に離婚家庭や不幸な家庭に育った子供たちは、大人になると、自分には縁のなかった、だが子供心にずっと渇望してきた堅実な家庭を改めてつくろうとする。これは世代の特徴だよ、とダニーは言う。彼らは逃げたりしないんだ。ヒッピー村に行ったり万里の長城を訪ねたりはしない。家庭に腰を据えて、人生の「安全保障口座」を開くのさ。

 ダニーは郊外の不幸な家庭に育ちはしたものの、ヒッピーのように逃げだしたちはせず、郊外にしっかりした家庭を築こうとしているわけだ。あるいは、このヒッピーという言葉を、姉のエイプリルと入れかえることも可能だろう。

 それでは、ダニーの母親ルイーズはといえば、彼女は、はるか昔のことになるが、結婚前には欲望と情熱に身をまかせようとした時期があった。しかし実際には、堅実な結婚の道を選んだ。ところが、息子からゲイであることを告白されたときに、そんな過去を振り返ることになる。

 ゲイだと聞かされた遠い昔のあの日の午後は、ルイーズには、いま息子が語りかけてくる世界に比べれば、自分が育ってきたのは、なんと厳格な、うむを言わせぬ世界であったかと思えたが、しかし彼女はその厳格な価値観にしがみついた。なにゆえに厳格か――いまのままがいいから、波風を立てたくないから、こぎれいな家々や清潔な食料品店の並ぶささやかな安住の地を吹き飛ばされたくないからだ。

 しかし結局、彼女が選んだ場所は、安住の地とはならなかったわけだ。

 そして、このルイーズとダニーのそれぞれのテリトリーに対する考え方は、奇妙によじれ、転倒していることになる。ダニーは、すでにゲイであることを家庭の枠組みのなかに完全に組みこみ、郊外というテリトリーに安住の地を築こうとしているのに対して、ルイーズは、安住の地とならなかった郊外から、ゲイであることを主張できるテリトリーにひそかな羨望をおぼえているからだ。

 それでは、ウォルターのテリトリーに対する考え方はといえば、それはこの小説のストーリーの流れのなかで、ダニーとルイーズ双方の考え方のあいだを揺れ動くことになる。つまり彼は、基本的にはダニーの考え方に賛同していたが、ルイーズにはじめて引き合わされたときに、彼女の心を読みとれるような親近感をおぼえるのだ。

 ウォルターが郊外を選んだ理由と、その結果はなかなか興味深い。

 彼は、ある静かな革命的行為に出る決心をした――生まれ持った性的嗜好を郊外の家庭生活のなかに織り込む。都会の土壌に根づいた同性愛の種を掘り出し、緑の庭の健全なる大地に植え変える。これは大体においてうまくいった。が、ひとつ大きな誤算があったことにウォルターは気づいた。都会にいたとき彼をとらえていたものは、ただ単に同性への愛ではなかった。むせるような密林さながらの都会という庭そのものに、束の間だが強烈な満足感を与えてくれる都会、危険と失望のつきまとう都会そのものに、彼は惹かれていたのだ。

 ウォルターの“静かな革命的行為”は、いわばゲイの存在を郊外のアメリカン・ファミリーに同化させる試みである。そして、この試み自体は、ダニーの考え方と折り合っている。一方、そのウォルターがなぜルイーズに親近感をおぼえるのかといえば、この引用にある“誤算”の中身が、ルイーズがかつて厳格な価値観にしがみついた結果とその感情を共有しているからだ。====>3ページに続く


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