第21章 サバーブスからエッジ・シティへ
――続・変わりゆくアメリカの風景


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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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 このモールはまさに、住人それぞれが自由に楽しみを選択することができるテーマ・パークの世界といっていいだろう。たとえば、“コモンズ・コレクション”と呼ばれる1階フロアは、ブルックス・ブラザーズ、ローラ・アシュレイその他の有名ブランド店が並び、高級感を求める人々の欲求を満たす。“キャンパス”と呼ばれる3階フロアは、ネオンきらめく若者たちのスペースだ。巨大なレコード店の他、サングラスだけ、アニメのキャラクター商品だけといった専門店が並び、16のレストランがひとつになったスペースがあり、7つの映画館が深夜1時までオープンしている。

 そして、“プロムナード”と呼ばれる2階は、家族のためのフロアだ。ここには、ふたつの静かで落ち着ける大人向けのレストランがあり、うち1店では酒類も許可され、どちらの店もビジネスマンのためのランチも用意されている。また、ボーイスカウトのメンバーが集まったりするためのコミュニティ・ルームといったものも、モールのなかに組み込まれているという。

 ブリッジウォーター・タウンシップの住人たちは、こうして新たな町の中心を手にすることになるのだが、この例からは、モールに対する価値観や郊外の変化がとても具体的に見えてくることと思う。

■■テレビとモールと高速道路に共通する特徴■■

 『Edge City』の著者ジョエル・ガローは、モールに言及する別の部分で、モールを中心としたエッジ・シティの創造へと向かう力は、人々が個人主義と自由の新たなバランスを探求することから生まれると書いている。確かに、個人よりも集団の価値観が支配的だったこれまでの郊外のコミュニティのことを考えると、モールを中心とした世界では、町を統一したシンボルができると同時に、個人の自由な空間が広がるようにも思える。

 かつて最も新しいフロンティアであった郊外の世界からは、時間の経過とともに、これまで取り上げてきたような作品を通して、様々な現実が浮かび上がってきた。それでは、この現在も発展の途上にあるともいえる新しいフロンティアの場合はどうなのだろうか。

 
《データ》
 
Highways to Heaven: The Auto Biography of America by Christopher Finch●
(Harper Collins, 1992)
 
Edge City: Life on the New Frontier
by Joel Garreau●
(Doubleday, 1991)
 
Logic of Television: essays in cultural criticism edited by Patricia Mellencamp●
(Indiana University Press, 1990)
 
The Whistling Song by Stephen Beachy●
(Norton, 1991)

 
 
 

 次章では、そうした変貌する郊外、モール、エッジ・シティを描いた映画や小説を取り上げるが、ここでは、そうした作品をみていくうえで非常に参考になる評論に触れておきたい。

 『Logic of Television』については、第3章でリン・スピーゲルの評論を紹介しているが、ここではこの研究書のなかから、マーガレット・モースの評論を取り上げたいと思う。どうしてここでまたテレビなのかと思われるかもしれないが、実はこのモースの評論は、テレビと高速道路、モールの3つに共通する特性を掘り下げ、それらが人々に及ぼす影響をテーマにしているのだ。

 ブリッジウォーター・タウンシップの例を振り返るまでもなく、これはモールを中心とした新しい世界に暮らす人々が、その環境からどのような影響をうけるかというテーマに限りなく近い内容だと考えていいだろう。ただし、この評論はかなりアカデミックなもので、難解な表現や用語も多く出てくるので、あくまで次章で取り上げる映画や小説を理解するためのヒントになる程度の参照であることを、あらかじめお断りしておく。

 このモースの評論で面白かったのは、たとえば、人がテレビを見たり、モールのなかを歩いたり、クルマで高速道路を走る場合、この3つのものが、“いま”と“ここ”の感覚を曖昧なものにし、別の世界に入っていくような効果や現実感の喪失をもたらすということだ。そして、この3つに共通する特徴として、人々を周囲の環境から限定された空間に隔離する一方、隔離された空間の向こう側には、それぞれにある種ミニチュア化された世界が広がっているということがあげられる。

 このことを郊外の生活に則して考えてみるならば、まずテレビについては、ほとんど説明の必要がないことと思う。テレビは、外の世界から隔離された郊外住宅地やそのなかの一戸建ての生活における中心的な娯楽であり、その画面の向こうには、ミニチュア化された様々な世界やイメージが広がっている。そしてまた、『ポルターガイスト』などで触れたように、現実と非現実の転倒や現実感の喪失をまねくメディアでもある。

 それではモールはといえば、人々は駐車場でマイカー族から完全な歩行者となり、巨大な建物の出入口をくぐったところで外の世界から隔離される。モールのなかは、たとえば外の景観を楽しむために窓を大きくとったレストランや展望ルームなどは別として、ほとんどの場合、建物の壁や屋根に窓はない。

 そして、先ほど『Highways to Heaven』を参考にショッピング・センターとモールの違いについて書いた部分には、モールがかつてのスモールタウンにいるような効果をもたらすという話があった。モースの評論にも同様の記述が出てくる。それがミニチュア化であり、人々はモールのなかで、スケールを縮小した昔懐かしいスモールタウンの大通りを歩くような体験をするということだ。人々はそうした環境のなかで、時間や空間の感覚、現実感を失うことにもなる。

 最後に高速道路だが、いうまでもなく郊外化は、都心から郊外へと伸びる高速道路の発達の恩恵をこうむっている。人々は、その高速道路に入ってから出るまで、クルマという機械と道路の側壁によって外の世界から隔離されている。そして、クルマの風防ガラスに仕切られた道路の両側の風景は、奇妙な目の高さやスピード感も手伝って、非現実的なミニチュアの世界と化していく。そこで、仮にこの高速道路を使って郊外から都心に通勤する人々を思い描いてみると、彼らは、自分たちにとって好ましくない高層ビルやネオン、危険で得体の知れないスラムなどを、独特の距離感で視野におさめながら、移動するということになる。

■■環境をコントロールするための切り替え装置■■

 ところで、こうした特性とこの章の冒頭から書いてきたことを照らし合わせていくと、テレビとモール、高速道路は、新しいフロンティアに暮らす人々が、自分たちの環境を自由にコントロールするための、オン/オフの切り替え装置を備えた空間であるようにも思えてくる。

 たとえば、ショッピング・センターが彼らにとってまぎれもない現実の世界にネオンの光をばらまくことは許されないが、テレビは、おそらくそれよりもさらに毒々しいコマーシャルを流しているだろうし、モールのなかではネオンもまたたけば、商店街も広がっている。しかしもちろん、テレビやモールの場合は、ひとたびスイッチを切ったり、出口を出てしまえば、それがあたかも存在しなかったかのように見事に姿を消すのである。そして、高速道路もまた、緑の楽園と生活にとって必要な場所や彼らにとって魅力的な場所を、オン/オフ感覚で結んでいるといえる。

 ジョエル・ガローは、新しいフロンティアの原動力を個人主義と自由の新たなバランスの探求と表現していたが、あるいは、この自由なオン/オフ感覚も、新たなバランスを作る装置といえるのかもしれない。

 ただし、これはあくまでオン/オフがうまく機能すればの話である。というのも、この3つのものには、当初の目的とか価値を曖昧なものにして、次第に習慣となるような、オン状態を持続させる作用があるように思えるからだ。

 たとえば、テレビについては、『ポルターガイスト』や、第20章ではそのことに触れなかったが『トラック29』など、一日の生活が始まると同時にテレビがつけられ、一日中つけっぱなしになっているというように、見るという目的でつけられているのではなく、環境の一部と化している。また、『ネイバーズ』では、ジョン・ベルーシが、テレビのチャンネルを変えるたびに流れてくる“血も凍るサスペンス”やら“あまりにも悲惨な事故”の話題やらを、ひどく退屈そうに、表情ひとつ変えずに眺める姿が印象に残る。

 モールについては、モースの評論のなかに、他の学者の面白い分析が引用されている。たとえば、モールのなかを歩くことは、テレビのなかを歩いてまわる体験に等しいとか、人々がモールのなかで時間や空間の感覚を失い、何時間もうろつきまわる現象について、“ゾンビ効果”という表現が使われているといったことである。モールの空間も、何かを買ったり、催しを見るといった目的が曖昧になり、習慣となり、環境の一部になっていくというわけだ。

 しかも、モールをうろつくことは、実際にはもはや現象とはいえないくらいに一般化し、モールをうろつく人々を意味するいろいろな言葉を、小説などでもよく目にするようになっている。たとえば、モースの評論には、“mall rats”という言葉が出てくるし、80年代のアメリカの風景をシュールなタッチで描いたスティーヴン・ビーチーの『The Whistling Song』では、それが“mall maggot”という言葉で表現され、現代アメリカの風景の断片となっているのである。

 それから、高速道路についてはいささかわかりにくいかもしれないが、たとえば、先ほどの高速道路で都心に通勤するという例を思い出してもらいたい。オン/オフ感覚の通勤が習慣化していくとき、都市のスラムを飛び越しているといったリアリティは希薄になり、スラムの光景は非現実的なイメージとして環境の一部に定着していくことだろう。

 こんなふうに見てくると、エッジ・シティに向かう新たな環境は、様々なアーティストの創作意欲を刺激する魅力を持ち合わせていることがおわかりいただけると思う。そこで、次章では、この新しい環境を描いた映画や小説を取り上げることにする。



(upload:2010/08/15)
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