ということで、この小説では、いささか奇妙な表現ではあるが、実は主人公が幸福であることが、妄想の原因になっている。たとえば、主人公が家族とヴァカンスを過ごしているとき、彼の気持ちはこんなふうに描写されている。
マックスには、現在の出来事を未来の時点から見る習慣があった。そのため、ペレッグズ・アイランドへの今回の旅行も、まだ終わっていないというのに、まるで遠い昔の出来事であったかのように、振り返るように見ていた。彼は、あまりにも幸せだった。彼とネリーは若く健康で、ふたりの子供はもっと若く、そして間違いなく、もっと健康だった。(中略)マックスは、幸運の神が輝く腕を彼の肩に置き、彼を終わりのない喜びに満ちた生活に導く様を思い浮かべた。さあ、すべてがいかにすばらしかったか思い出すんだ、マックスは自分にいいきかせた。満ち足りたペレッグズの時間を思い出すんだ。さあ、思い出せ、思い出すんだ。
若く健康でという、このマックスの幸福感は、第5章で触れたアメリカン・ファミリーの抽象的な幸福を思い出させる。誰の目から見ても幸福であることは明らかだが、どこに向かうという指針があるわけでもなく、漠然とそこにとどまっている。あるいは、主人公が現在の幸福を感じるために、過去のことを思い出すかのような努力をしなければならないのは、その幸福が、あらかじめ約束され、ある意味ではすでに完結した世界のなかにあるからなのかもしれない。
そして実は、主人公の前に謎の美女が現れるのは、彼が現在の幸福を思い出し、満足感と空虚さを同時に感じているときなのである。彼は、幸福を思い出して現在に復帰するたびに、家族との間に微妙な距離ができ、家族のなかのある種の異邦人となっているのである。そんな距離感が、この小説では、ユーモアたっぷりに表現されている。たとえば、家族が、芝生のグリルでハンバーガーを焼く郊外のお決まりの光景は、マックスの視点で、こんなふうに表現されている。
異星人マックス・レイクマンは、芝生に置いた椅子に座って、枯れかけた桃の木のわずかな影から、彼の家族を観察していた。あの生物は何者だ? どうやって裏庭に入ったんだ? 彼らの目的は?
二匹いる小さな生物の一匹が振り向き、芝生の向こうから彼の方を見た。そいつは彼がいるのを見抜いていた。交信が始まる。そいつが口をきくと、マックスが驚いたことに、そいつは地球の言葉を自由に使いこなした。
こうした距離感によって、主人公は、もうひとつの世界を作り上げていくことになるわけだ。そして、結局彼の妄想がどうなるかといえば、最後に彼は、謎の美女に誘われて海に入っていくところを、駆けつけた妻によって現実に引き戻されるのである。
この小説は、重いテーマを扱うような作品ではないが、こうしてみると、郊外の幸福にどっぷりと漬かっているよりも、不安や密かな願望や好奇心に突き動かされている人々の方が、まだしも健全という気がしてくる。抽象的な幸福にどっぷりと漬かってしまえば、人生は完結してしまい、その向こうには、地上の楽園ではなく、天国だけが待っているだけなのかもしれない。
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