彼らが住んでいるのは、田舎町がベッドタウン化しつつあるような郊外の一角であり、彼らの家ともう一軒の家の二軒が、取り残されたようにぽつんと建つ行き止まりの空間なのだ。しかも、家の周囲は、以前には自然に恵まれていたようだが、いまでは、どこかの工場から流される廃液によってヘドロの沼ができ、そばには、送電線を支える巨大な鉄塔まで建っている。要するに、どこか風通しが悪く、全体に空気が淀んでいるのである。
そして、主人公のアールは、もう一軒の家に、謎めいたカップルが引っ越してきたことがきっかけとなって、不条理な悪夢に引き込まれていくことになる。この展開は、かなりシュールなタッチで描かれているため、郊外の世界という背景が見えないと、つかみどころのない話のように思われるかもしれない。
たとえば、ボブ・ウッドワードが書いたベルーシの伝記『WIRED』は、日本では内容を削った編訳版『ベルーシ殺人事件』として出版されているが、そのなかに、この『ネイバーズ』に対して対照的な反応を示す映画人のエピソードが出てくる。
映画監督のルイ・マルと脚本家のジョン・ガールは、『ネイバーズ』の次にベルーシを自分たち作品に起用しようと考えていた。そんな彼らのこの映画に対する反応は、次のように描かれている。
試写を見終わったルイ・マルとガールはいささか呆然となった。こんなに胸が悪くなるような映画とは思ってもみなかったのだ。ガールは、けばけばしくて少しもおかしくないコメディだと思った。二人の隣人が死闘をくりひろげる。だがどうしてそうなるのかよくわからない。しかも最後に二人は一緒に家出してしまう。ベルーシの妻が悪役になっているが、やっぱりどうしてそうなるのかわからない。ベルーシの演技は始めから終わりまでどこかぎこちない。ガールは初めのうちギョッとした。というのは、映画が最初からコメディそのものを破壊しようとしているように思えたからだ。その責任は監督にあるのだろうが、ベルーシとエイクロイドも責任の一端を負わなければならない。
一方、『ネイバーズ』はコロンビア映画配給の作品だったが、パラマウント映画の社長マイケル・D・アイズナーの反応は、このように綴られている。
「『ネイバーズ』をみてきたばかりだが、非常に素晴らしい映画だ。わたしは気にいっている。」そして、興行的には成功しないかもしれないが、あの映画がかもしだす不思議な暗さを考えれば、それもうなずけると付け加えた。
『ネイバーズ』に描かれているのは、24時間にも満たないドラマだが、その間に、まるでひと晩の悪夢ででもあるかのように、新来の隣人が、主人公の家庭に何の遠慮もなく踏み込んでくる。
最初に主人公の家の扉を叩くのは、セクシーなドレスに身を包んで色気を振りまくラモナという女だ。彼女はずかずかと家のなかに入り込んで、ソファでくつろぎ、家の主人を隣に座らせ、言葉と態度で誘惑していく。彼の妻は、キッチンで夕食の支度をしている。主人公は、誘惑に気づかないふりをしつつ、彼女の真意を確かめようとする。しかし、ラモナは、彼がキッチンの妻の様子を見にいっている間に姿を消している。ところが今度は、見知らぬ男が、まるで主人であるかのように居間のソファに腰掛け、当たり前のように夕食のメニューを聞いてくる。そして、家にまともな材料がないことがわかると、買い物に行ってくるから金を出せという。そればかりか、クルマが故障しているから、クルマを貸してくれという。そこで、しかたなくキーを取りに二階の寝室に行くと、勝手にシャワーを浴びたラモナが、全裸のままベッドにもぐり込んでいるといった具合だ。
郊外の住人たちの社交的な関係については、すでに触れたとおりだが、この主人公もまた、そんな郊外のしきたりに従って、新来の隣人をオープンに迎え入れようとする。ところが、この隣人は、あまりにもあつかましく、しかも得体の知れないカップルであることがわかってくる。もちろん主人公は、彼らを何とか家から追い出そうとするが、その一方で、ラモナに対する好奇心を捨てることができない。そして、形式的な社交性と好奇心が入り混じった主人公の優柔不断な態度が、彼を抜きさしならない立場に追い込んでいくのだ。
この謎の隣人との関係は、銃の発砲騒ぎや殴り合いへとエスカレートし、ついには、隣人の家が火災を起こして焼失し、カップルが家に転がり込んでくるはめになる。そして、ここまでくると、さすがに主人公の感情は、社交や好奇心といったレベルをはるかに飛び越えている。もちろん、彼は、この危険な隣人の化けの皮をはがし、悪夢から抜け出そうとする。
ところが、それと同時に、主人公のなかには、まったく別な感情が芽生えている。彼は、『激突!』の主人公とタンクローリーの関係と同じように、信じられないような隣人の行動に、これまでにない刺激を覚えてもいる。そんななかで、主人公が、居間の壁にかかった三人家族の肖像画を見つめる姿は印象的である。というのも現実には、突然家に戻ってきたかと思った娘は、あっという間に若い男と出て行ってしまい、妻もアメリカの土着文化の研究と称して家をあけ、彼だけが取り残され、行き場を失いつつあったからだ。
そして結局、彼は、絵に描いたような家族のかたちよりも、越してきて間もない得体の知れない隣人に強い絆を感じていることに気づく。なぜなら、映画のラストで彼は、家と家族を捨て、奇妙な隣人とともに、解放されたかのように嬉々として町を後にするからだ。しかも、彼は家を去る前に、肖像画を自分の頭でぶち破り、テレビを壁に投げつける。壊れたテレビからは火花が飛び散り、部屋に火が燃え移り、主人公は、煙が立ちのぼる家を後にするのだ。
この映画は、象徴的なイメージを散りばめた心理劇として見ることができる。たとえば、行き止まりの通りの二軒の家とドロ沼や鉄塔からなる奇妙な光景は、登っていくための次の階段がもはや残っていない主人公の心象風景のように思えてくる。また、肖像画やテレビが象徴的に描かれていることはいうまでもない。そんなふうに考えると、この映画は、主人公の心の底に潜む不安や願望が、謎の隣人を作り上げてしまう妄想のドラマに見えてくるのだ。
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