第18章 郊外のティーンエイジャーに襲いかかる悪夢―「ハロウィン」ウェス・クレイヴン

ハロウィン/Halloween――――――――――――――1978年/アメリカ/カラー/90分/シネスコ
鮮血の美学/Last House on the Left――――――――1972年/アメリカ/カラー/85分
エルム街の悪夢/A Nightmare on Elm Street――――1984年/アメリカ/カラー/91分/ヴィスタ
デッドリー・フレンド/Deadly Friend―――――――――1986年/アメリカ/カラー/91分/ヴィスタ
壁の中に誰かがいる/The People under the Stairs――1991年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■ティーンの悪夢の背景にある家族の亀裂■■

 クレイヴンの代表作『エルム街の悪夢』(84年)では、文字通り郊外のティーンエイジャーが、夢のなかで鋭い爪を持ったフレディという殺人鬼に襲われる。

 この作品はシリーズ化され、殺人鬼フレディが人気者になってしまったために、"エルム街の悪夢"というと、すぐにフレディが思い浮かんでしまうが、クレイヴンが監督した一作目と他の監督が手掛けた二作目以降では、フレディが襲いかかる"日常"の意味が、明らかに異なっている。ということは、突き詰めれば、フレディという存在の意味も、いささか異なることになる。

 それは、クレイヴンの『エルム街の悪夢』と、その翌年に作られたスティーヴン・ダイナー監督による続編『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』とを比較してみるとよくわかる。ということで、まずは、クレイヴンらしいイメージが、巧みな編集によって効果的に結びつけられている一作目の冒頭のシーンをじっくりと振り返ってみたい。

 『エルム街の悪夢』の冒頭では、クレジットとともに、ティナというティーンの悪夢が進行していく。彼女は、鉄管が入り組む地下の下水処理施設のような空間のなかで、殺人鬼フレディに追いまわされる。彼女が叫び声をあげて目を覚ますと、声を聞きつけた母親が、ドアを開けて現れる。その母親の娘に対する態度は、決して温かいものであるとは言いがたい。

 それから、彼女に続くように男が姿を見せ、母親に早く戻るようにせかす。ティナにまったく関心を示さないことから、男が彼女の父親ではないことは明らかだ。場面は変わり、緑の芝生のうえで白い服を着た少女たちが、数え歌にあわせて縄跳びをしている象徴的なショットを挟んで、ティナと友だちの登校風景が続く。

 これだけの描写のなかに、悪夢に悩まされる人物の家庭環境が暗示され、悪夢の背景をなす薄暗いトーンと緑が光に映える郊外のトーンが、印象的なコントラストを作っている。この部分には、一作目における"日常"やフレディの意味などが、すべて凝縮されているが、それはストーリーを追って明らかにしていくことにしよう。

 まず、最初の事件によって、この導入部で暗示されたものが、具体的に展開される。事件は、冒頭に登場したティナの母親が家を留守にした夜、ティナの家に彼女のボーイフレンドのロッドと、ティナの友人ナンシーとそのボーイフレンドのグレンが泊り込むときに起きる。ティナとロッドは、彼女の両親のベッドでセックスに励み、彼女を悪夢から護るために泊まったはずのもうひと組のカップルは閉口している。だがその夜、ティナはフレディに惨殺されてしまう。




―エルム街の悪夢―


◆スタッフ◆

監督/脚本   ウェス・クレイヴン
Wes Craven
撮影 ジャック・ヘイトキン
Jacques Haitkin
編集 パトリック・マクマホン、リック・シェイン
Patrick McMahon, Rick Shaine
音楽 チャールズ・バースタイン
Charles Bernstein

◆キャスト◆

ナンシー・トンプソン.   ヘザー・ランゲンカンプ
Heather Langenkamp
トンプソン警部 ジョン・サクソン
John Saxon
マージー・トンプソン ロニー・ブレイクリー
Ronee Blakley
フレッド・クルーガー ロバート・イングランド
Robert England
ティナ・グレイ アマンダ・ワイス
Amanda Wyss
ロッド・レーン ニック・コリー
Nick Corri
グレン・ランツ ジョニー・デップ
Johnny Depp
キング医師 チャールズ・フライシャー
Charles Fleischer

(配給:日本ヘラルド)
 
 
 


 ティナの家庭環境は、事件後に明らかになる。彼女の両親は10年前に離婚し、事件のあった晩は、母親が愛人と旅行中だった。そのティナに続いて悪夢に悩まされるのは、この映画の主人公ナンシーだが、彼女の家庭環境にもまた不穏な空気が漂ってくる。父親は、この事件を担当する刑事だが、両親は別居中で、ナンシーは母親とふたりで暮らしている。エルム街の素敵な家のなかで、母親と娘の間にはこんなやりとりがある。ナンシーが現れると、母親がウォッカらしいボトルをさっと背中に隠すというシーンが何度か挿入される。そしてついには、娘の口から「ママみたいにお酒を飲んでやる、酔っぱらえば悪夢も忘れられるわ」という痛烈な台詞が飛び出してしまうのだ。

 つまり、キングやスピルバーグの例を引くまでもなく、悪夢の恐怖イメージは、娘たちの日常ならざる日常と深く結びついている。

 それでは、先ほど触れた続編『フレディの復讐』はといえば、一作目の事件から5年後に、同じ家に越してきた一家の長男が、夜毎悪夢に悩まされるという展開になる。しかし、この家族には何ら亀裂らしきものは見当たらない。フレディの存在は、家族ではなく、家に取り憑いた単なるおどろおどろしいモンスターと化し、底の浅いホラーとなってしまうのだ。

 そこで、一作目と二作目では、フレディの存在のリアリティが、おのずと違ってくる。一作目でそのイメージが際立っているのは、フレディが現れる背景である。このコンクリートや鉄管が剥き出しになった薄暗い空間には、そのイメージと結びつけようとするかのように、かつてフレディが焼却炉で殺されたというこじつけ的な説明が添えられてはいるが、そんな説明とは無関係に独立した効果を生み出している。

 というのも、映画の冒頭でも触れたように、クレイヴンは、この空間を郊外の緑と対置しているからだ。この映画では、悪夢の背景に対して、見事に整えられた芝生や木立の緑が巧みに強調されている。すでに何度か触れたように、郊外住宅地では、自然や緑が強調され、快適な居住空間を支え、町の景観をそこねるような施設は、徹底的に見えない場所に隠されている。そういう意味では、フレディの背景とは、郊外の景観から最も敬遠されるものだといえる。

 そこで筆者が思い出すのは、前にも引用したキングの『クージョ』で、情事に走ったドナが、その行為について自分を納得させようとする次のような心の動きである。

彼女はスティーヴ・ケンプとの情事にのめりこんだのはほぼ偶然からだったと、本気で信じていた。それはいわば地中の下水管が破裂したようなものだった。同じような下水管が、アメリカのほとんどすべての家庭の手入れの行きとどいた芝生の下に埋まっている、と彼女は信じていた。

 こうしてみると、フレディの悪夢とは、一見平和そうに見える郊外の家庭のなかで、家族が、ささやかな亀裂を見て見ぬふりをしているところから吹き出してくる悪夢といえる。こうしたリアリティは、もちろん、続編である『フレディの復讐』から感じることはできない。但し、クレイヴンが監督はしていないものの、製作にあたっているシリーズ第三弾『惨劇の館』では、ナンシーが再び登場するということもあり、家族の絆から見離された子供が登場する。しかし、物語は、フレディの出生の秘密といった展開へと向かい、あのリアリティが再現されることはない。

 クレイヴンが、『エルム街の悪夢』の続編のかわりに監督した『デッドリー・フレンド』は、映画の出来がいまひとつだったこともあり、『エルム街の悪夢』のように評判になることはなかったが、この作品にはやはり、彼の郊外の家庭への関心を見ることができる。この作品は、クレイヴンには珍しく、ダイアナ・ヘンステルの『フレンド』という原作小説がある。その原作は読んだことがないので、内容を比較することはできないが、この映画の舞台となる郊外の町では、主人公の家庭を含めて、まともな家庭はほとんど出てこない。

 

 映画は、主人公ポール・コンウェイ少年の一家が、郊外の町に引っ越してくるところから始まる。というのも、少年はIQが異常に高く、15歳にして人間の脳に関する権威になり、町の近くにある大学の研究助手になったからだった。しかし、一家といっても、母親とポール、そして、彼が自らの手で作ったロボットの"BB"という母子家庭である。映画では、そうした事情については、いっさい触れられない。

 しかも、引っ越し早々から、主人公一家の周囲には、不穏な空気が漂っている。隣の家からは、「この野郎、酒ビンをどこに隠した」という男の怒鳴る声が響いてくる。向かいの家では、カーテンの陰から誰かが見ているのだが、決して姿を見せようとはしない。そして、ストーリーの進行とともに、実情が見えてくると、郊外の景観とそこで暮らす家族は、完全にバランスを欠いていることが明らかになる。

 主人公の隣の家庭は、父親とサマンサという少女のふたりで暮らしている。母親がどうしたのかは、娘の悪夢から読み取れる。母親はかつて浮気をして父親を裏切り、家族を捨て、酒びたりの父親は、成長して母親に似てくる娘を虐待する毎日を送っている。これはもちろん、クレイヴン的な設定である。一方、向かいの家はといえば、偏屈な老婆がひとりで暮らし、家のまわりに金網を高く張り巡らし、近所の人々を寄せ付けようとしない。そして、ハロウィンの日、主人公とともに悪戯のつもりでこの老婆の庭に入ったロボットの"BB"は、彼女のライフルで吹き飛ばされてしまうのだ。

 というように、クレイヴンは、この作品で、荒んだ郊外の光景を描き出している。ポール少年の母親は、食事の前に「立派なクルマが持てるのは、神のおかげです」とお祈りするのだが、なんとも虚しい言葉である。その後、この映画は、SF的な展開をみせる。

 サマンサは、激昂した父親に階段から突き落とされ、脳死状態になってしまう。そこで、ポールは、すでに生命維持装置を外され、死亡している彼女を蘇生させようと、ロボット"BB"の頭脳であるICを、彼女の脳に埋め込む。こうした展開は、スティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』を連想させもするが、その結果も、同じように悲劇へと向かっていく。サマンサの意識は戻ったかに見えたものの、その脳は"BB"の記憶に支配され、サマンサの父親、向かいの老婆が、次々と惨殺されていく。『エルム街の悪夢』のフレディとは逆に、郊外の悪夢が大人たちに襲いかかるのだ。

 この映画を、クレイヴンのこだわりを意識することなく見たとしたら、おそらく陳腐な展開だと思うことだろう。しかし、家庭の崩壊とか、郊外の歪みといった情報がインプットされていないロボットの意識が、この郊外をどのように認識し、判断を下すのかということを考えてみると、この映画は、野心的なアイデアを秘めていたのではないかと思う。結果的にそれが成功しているとはいえないが、ここまでイメージを飛躍させていくクレイヴンという監督の作家性には、やはり興味をそそられるものがある。

 また、第三章で触れたように、この映画には、テレビをめぐって印象的なシーンがある。ポールは、友だちと結託して、母親に睡眠薬入りのコーヒーを飲ませ、彼女が眠り込んだすきに病院に侵入して、サマンサの死体を持ち出そうとする。三人は、母親が眠り込むまでの間、居間でテレビを見ている。後ろのソファに母親が座り、ポールと友だちは、彼女の前でカーペットにうつ伏せになり、テレビに見入るふりをしている。ふたりは、そうすることで、母親に背を向けていられる。これは、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』で、オードリーが憧れる郊外のファミリー・ルームの光景とまったく同じわけだが、母親には、もちろん子供たちの表情が見えない。そんな光景が、悲劇に向かう断片を構成しているのは、なかなか印象的である。

 先ほど、この映画は、フレディとは逆の、大人たちへの悪夢と書いたが、物語は、ポールがサマンサを失う悲劇で終わる。そういう意味では、これもまた『エルム街の悪夢』とは違った意味で、郊外のティーンに襲いかかる悪夢ということになるのだ。

■■白人の郊外と荒廃するインナーシティの対置■■

 作品はさらに新しくなるが、『壁の中に誰かがいる』(91年)では、クレイヴンの個性が過剰に出ている一方で、これまでの彼の感性からはあまり予想できない展開も盛り込まれている。

 この映画は、下層の黒人たちが暮らすスラム街のアパートの一室から物語が始まる。主人公は、黒人の少年フール。彼の一家は、家賃が払えないために立ち退きを迫られ、彼は、癌の母親と身重の姉を助けるために、姉の友人とともに、金貨コレクターだと噂される家主の家に忍び込む。ところが、フールの住む街の郊外にある古色蒼然としたその屋敷は、両親に絶対服従する"完全な子供"を求める家主夫婦が、誘拐した子供たちを調教し、思うようにならなければ舌を切るなどの体罰を加え、地下室で飼い殺し扱いにしている異様な世界だった。そして、発見されたフールは、屋敷のなかを逃げまわるはめになる。

 黒人のスラム街から映画が始まるというのは、白人の郊外からユニークなホラー・イメージを紡ぎ出してきた監督にとって、新たな展開だといえる。そして、この本の第6章で書いたような郊外における人種差別やゾーニングのことを振り返るなら、都市のスラムと郊外の落差が激しくなっていったとき、そこに歪んだ関係が肥大化していくのも不思議ではないはずだ。

 もちろん、意外な展開があるとはいえ、この作品にも、クレイヴンならではのセンスと極端さは光っている。たとえば、子供やティーンに対する虐待のイメージは、この作品では、こだわりを超えて、妄執というべきものになっている。黒人家庭と白人家庭のコントラストも印象的だ。主人公の黒人家庭には、さしたる説明もなく父親が不在であるのに対して、家主の白人家庭では、夫婦が(実は夫婦という関係ではないにもかかわらず)50年代のように、パパ、ママと呼び合い、恐怖を突き抜けて笑いを誘うかのように、子供の虐待に精を出している。50年代といえば、デイヴィッド・リンチが思い浮かぶが、この映画では、リンチの『ツイン・ピークス』で夫婦をやったエヴェレット・マッギルとウェンディ・ロビーのコンビが、家主夫婦に扮しているのだ。

 


 
―デッドリー・フレンド―

◆スタッフ◆

監督   ウェス・クレイヴン
Wes Craven
脚本 ブルース・ジョエル・ルービン
Bruce Joel Rubin
原作

ダイアナ・ヘンステル
Diana Henstell

撮影 フィリップ・H・ラスロップ
Philip Lathrop
編集 マイケル・エリオット
Michael Eliot
音楽 チャールズ・バーンスタイン
Charles Bernstein

◆キャスト◆

ポール・コンウェイ.   マシュー・ラボートー
Matthew Laborteaux
サマンサ クリスティ・スワンソン
Kristy Swanson
トム マイケル・シャレット
Michael Sharrett
ジーニー アン・トゥーミー
Anne Twomey
ハリー リチャード・マーカス
Richard Marcus
エルヴィラ アン・ラムジー
Anne Ramsey

(配給:ワーナーブラザース)
 
 
 
―壁の中に誰かがいる―

◆スタッフ◆

監督/脚本   ウェス・クレイヴン
Wes Craven
撮影 サンディ・シセル
Sandy Sissel
編集 ジェイムズ・コブレンツ
James Coblentz
音楽 ドン・ピーク
Don Peake

◆キャスト◆

フール   ブランドン・アダムス
Brandon Adams
家主:パパ エヴェレット・マッギル
Everett McGill
家主:ママ ウェンディ・ロビー
Wendy Robie
アリス A・J・ランガー
A. J. Langer
リロイ ヴィング・レイムス
Ving Rhames
スペンサー ジェレミー・ロバーツ
Jeremy Roberts

(配給:UIP)
 
 
 


 この映画の物語は、クレイヴン自身が12年前に、「サンタモニカ・イヴニング・アウトルック」紙で読んだ実話がもとになっているという。その事件のあらましは、このようなものだ。郊外の住宅地で、隣人に押し込み強盗が入っているらしいと、警察に通報があり、警官が調べたところ、発見されたのは、部屋に監禁された数人のティーンエイジャーだった。事情聴取の結果、両親が、自分の子供たちを監禁し、子供たちは、生まれてから一度も外に出たことがないことが判明した。また、クレイヴンは、この映画について以下のようにも語っている。

「その事件に刺激され、わたしはすぐに80ページの脚本をかきあげたが、他の企画を映画化するために、このアイデアは、その後10年以上ほったらかしになっていた。だが、毎回、新聞やTVのニュースで、よく似た事件の報道を目にするたびに、そのアイデアが脳裏に甦ってきた。そしてついにそれをフィルムに定着させる日がやって来たんだ」(『壁の中に誰かがいる』プレスより引用)

 クレイヴンを虐待される郊外のティーンのイメージに駆り立てているのは、現実そのものだといってよいだろう。しかし、クレイヴンは、この映画化にあたって、この両親を、スラム街の黒人たちから冷酷に金を絞り上げる家主に変え、黒人の少年を主人公にして、わざわざ黒人の問題もストーリーに盛り込んでいることになる。

 それは、スパイク・リー以降のブラック・ムーヴィーの台頭も影響を及ぼしているに違いない。しかし、筆者がまず感じるのは、これまで中流の白人社会を掘り下げてきた監督が、その社会の外部に向ける眼差しだ。都市から郊外に逃避した人々が、郊外の外の世界に対しておぼろげな脅威を感じることはすでに書いたが、郊外と家族に関心を持つ監督であれば、中流の白人社会の内側にこだわればこだわるほど、外側にも意識が向かうもののように思える。郊外の世界にこだわってきたスピルバーグが、突然、『カラー・パープル』へと飛躍したのも、そういう感覚の現れといってよいだろう。

 そうした内側から外側への視点と関連して、この映画のなかで印象に残るのは、主人公の少年が、屋敷の天窓からスラム街を見下ろすシーンだ。屋敷とスラムのコントラストからは、富める者はますます豊かに、貧しいものはますます貧しくという80年代の現実が浮かび上がってくる。但し、この作品では、こうした歪みがグロテスクなイメージとして肥大化していくことなく、次第に単純な図式へと収束していってしまう。映画のエンディングに、ラッパーのレッドキング・ヘッドピンの<ドゥ・ザ・ライト・シング>が流れることも、それを物語っているといえる。ブラック・ムーヴィーを意識したユーモアにはなっているが、差別も吹き飛ばすような、クレイヴンの暴走するホラー・イメージは影を潜めている。それでも、ホラーというジャンルのなかで、白人の郊外と黒人のスラムが結びつけられていることは、注目に値するが。

 最後に、クレイヴンの映画以前の経歴にも少し触れておくことにしよう。オハイオ州生まれの彼は、大学で英文学の修士号を得たあと、カレッジで教鞭をとっていたが、教師生活に飽き、映画界に身を投じたという。ジャーナリズムに強い関心を示し、映画のアイデアを引き出すのも、そうした経歴と無関係ではないだろう。

 この本の第24章では、郊外の子供たちをめぐって、80年代に実際に起こった不気味な事件をいくつか取り上げるが、そんな事件が続くかぎり、クレイヴンのアイデアも次から次へと膨らんでいくことだろう。


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(upload:2006/06/24)
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《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第19章 こわばった郊外居住者の妄想 ■
80年代から浮かび上がるアメリカのダークサイド――トッド・ヘインズの世界 ■

 


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