第17章 戦争が終わり、世界の終わりが始まった

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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)

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 フェイの存在は、テレビドラマや雑誌のマンガ、そして消費をうながす生産者が作り上げた中流意識の権化といっていいだろう。チャーリーとネーサンは、そうした不動ともいえる中流の意識に振り回されていくのだ。そのネーサンが、なぜ自分に興味を持ったかフェイに尋ねたとき、彼女はこう答える。

「良き夫になれる素材だから。その点、抜け目がないんだよ、私は。これにはロマンチックな要素はないんだよ」

 これは、ベビーシッターすら呼べないほど辺鄙な場所に邸宅を建てたフェイが、単調な日常に疲れ、ロマンスを求めて情事に走ってしまったという話とはぜんぜん違う。恐ろしいのは、ネーサンが、彼女自身に引かれるのではないことだ。彼が引かれるのは、彼女の向こう側にある、彼女が作り出したものでもなく、彼女自身にも操ることができない確固とした中流の価値観なのだ。つまり、彼は、作り上げられた中流意識の“かたち”に抵抗できずにはまっていくのだ。

 一方、そうしたかたちにはまることができずに登場人物たちを傍観するのが、フェイの兄ジャック・イシドールだ。彼は、チャーリーとフェイの邸宅の居候として登場し、現実と虚構の境界に立たされたとき、虚構を選ぶしかないアウトサイダーとして描かれ、50年代の価値観が過剰に強調されたこの夫婦を傍観することになる。

 現実よりも虚構を選ぶ彼は、いかにも西海岸の郊外にいそうな狂信的なキリスト教徒の主婦が唱える予言を信じる。彼女は、間もなく世界が終わると予言するのである。しかし結局、この予言は現実のものとはならない。イシドールは自分の誤りを悟るわけだが、しかし、彼が傍観する世界そのものにすでに崩壊感覚が漂い、戦後の大量消費時代のなかでリアリティが失われていくのを感じとることができる。

 このイシドールという人物の説明をなぜ最後に持ってきたかというと、彼の立場が、後に触れるSF作品『時は乱れて』の主人公レイグル・ガムの立場に酷似しているからだ。『戦争が終り、世界の終りが始まった』と『時は乱れて』は、主流とSFという違いはあるものの、だいたい同じ時期に書かれ、どちらも1959年を舞台にし、主人公は、妹夫婦の家に居候している。そして、レイグル・ガムの場合には、平穏な50年代の世界のなかで、彼が感じる崩壊の予感が、イシドールの場合とは違って、幻覚のままでは終わらないのである。

 そういう意味では、主人公イシドールが、実際に世界の終わりを目の当たりにすることはないにしても、ディックが、自殺に追いやられるチャーリーや中流のかたちにからめとられていくネーサンの姿に、戦後のアメリカ社会の崩壊を感じとり、それを、イシドールが信じ込む世界の終わりの予言に投影していると考えることも可能だろう。この章のタイトルを「戦争が終わり、世界の終わりが始まった」にしたのも、そんなディックの視点を明確にしたいと思ったからである。




●THE THREE STIGMATA OF PALMER ELDRITCH
by Philip K. Dick (1965)
●UBIK
Philip K. Dick (1969)
●CONFESSIONS OF A CRAP ARTIST
by Philip K. Dick (1975)
●PUTTERING ABOUT IN A SMALL LAND
by Philip K. Dick (1985)
●MARY AND THE GIANT
by Philip K. Dick (1987)
●TIME OUT OF JOINT
by Philip K. Dick (1959)

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●『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』
フィリップ・K・ディック

浅倉久志訳(早川書房、1978年)
●『ユービック』
フィリップ・K・ディック

浅倉久志訳(早川文庫、1978年)
●『戦争が終り、世界の終りが始まった』
フィリップ・K・ディック

飯田隆昭訳(晶文社、1985年)
●『小さな場所で大騒ぎ』
フィリップ・K・ディック

飯田隆昭訳(晶文社、1986年)
●『メアリと巨人』
フィリップ・K・ディック

菊池誠、細美遥子共訳(筑摩書房、1992年)
●『時は乱れて』
フィリップ・K・ディック

山田和子訳(サンリオSF文庫、1978年)
 
 


 というわけで、本来ならすぐにSF作品『時は乱れて』に話を進めるところだが、この原稿のなかで主流とSFの作品を交互に取り上げることによる混乱を避けたいので、もうしばらくディックの主流小説のなかにある崩壊感覚やリアリティの喪失というテーマを探ってみることにしたい。

 ディックの50年代の世界では、テレビや郊外の家など50年代を象徴するような“もの”が登場人物たちを包囲し、彼らの現実を支えている。先ほど触れた50年代前半のロスを舞台にした『小さな場所で大騒ぎ』は、テレビの販売店のオーナー、ロジャーと妻のヴァージニア、そして、製パン会社の副社長チック・ボナーとその妻リズという二組の夫婦を主人公に、ロジャーとリズの不倫が描かれる作品だが、この小説でも、ロジャーやヴァージニアの回想を通して、大量消費時代に向かう戦中、戦後の変化が、生き生きとリアルに描かれている。彼らの周囲では、洒落た名前のついた郊外住宅が次々と造成され、新しいポータブル・ラジオやテレビが電気屋の棚に並ぶ。主人公もテレビという新しいメディアに夢を託す。しかし、そんな何もかもが新しく、輝いている時代は、ディックの目を通して見たとき、どこか翳りをおびていく。

 特に筆者の印象に残っているのは、主人公ロジャーの目を通して見た不倫相手リズの家の描写である。この小説の中盤あたりで、同じ家に対するロジャーの印象が、少し時間をおいて二度出てくる。最初は、息子の学校で知り合ったリズに会うために、初めて彼女の家を訪ねたときの描写である。

まわりの家と似ていて、最近建てられた平屋作りの小さな家だった。カリフォルニアのランチハウス風の造りで、前庭に広いガレージ、それから南アメリカ産のコショウボクが一本植えられている。ピクチャーウィンドーにはカーテンがかかり、淡い光が映っている。家の前にフォードの赤塗りのステーションワゴンが駐車していて、街灯のぼんやりした明かりが当たり灰色に見えた。

 しかしながら、この最近建てられた家は、再び彼が訪れたとき、明るい陽光のもとでひどく疲れたものに見える。

さんさんと陽光を浴びている小さな家はみすぼらしく見えた。窓の周囲からペンキがはげ落ち、芝生もしばらく刈られた様子がない。外に駐められている赤塗りのステーションワゴンは埃をかぶっていて、フェンダーにふたりの息子の指で描かれたのだろうか、イニシャルがぼんやりと浮かんでいた。

 ロジャーの印象を綴るこのふたつの文章は、前者がイメージで、後者が生活感が重くのしかかる現実といってもいいだろう。そして、ふたつの印象の狭間から、イメージとしての現実を補強するユービック・スプレーといったアイデアを垣間見ることもできるはずだ。

 ディックの世界では、主流小説の作品でも、ちょっと前まで輝いていたものが、次の瞬間には生気を失い、補強が必要な危うい世界に見えてくる。そして、ひとたびそんな危うさを感じてしまった登場人物たちは、イメージとしての現実から逸脱して、もっと確かな現実を求めて世界を彷徨う。

 

 そのこととも関連して、ディックの主流小説の世界をめぐる話の最後に、『メアリと巨人』から、とても印象に残っている文章を引用したい。

 この小説の舞台は、1953年のカリフォルニアの小さな町で、主人公は、自分の世界を探し求めて彷徨うような20歳の女性メアリアンである。彼女には、デイヴィッドという婚約者がいるのだが、その彼の父親が、メアリアンについて心のなかでこんなふうに考えるのである。

 あの子はまだほんの小娘だ。最近はみんなああいうふうなのだろうか。妙に大人びた若者たちの世代――成熟しすぎて、気になる面もある。無遠慮だし、信仰心がない。尊敬するに足る人、尊敬するに足るものを見つけられないでいるのだ……信じるに足る何か現実的なものを捜し求めている。尊敬するに値する何かを。そして、あの子たちは絶対にだまされない。ごまかしを見ぬいてしまうのだ。
 自分の生き方がメアリアンの目にどう映っているのかを考えると居心地が悪くなる。まやかしでむなしい平凡な毎日。中身のない虚礼ばかり。あの子といると、自分が鈍い愚か者のような気がしてくる。自分がどういうわけか縮んでしまったような気がしてくる。あの子の目から見ると、自分はなにかの基準に達していないのだ。その基準というものも謎だが。あの子といると、自分が恥ずかしくなる。

 おそらくは、50年代におけるこうした社会の変化や世代の断絶に対する鋭い観察が、ディックのSF小説の土台になり、他のSFにはない奇妙なリアリティを、彼の作品にもたらしているのだろう。そして、そんな印象をさらに強くするのが、先ほど触れたSF小説『時は乱れて』である。

■■目の前に崩れ去る50年代の世界■■

 この作品は、SF小説ではあるが、かなり主流小説に近い。というのも、冒頭から全体の5分の4くらいまでの物語は、ほとんど主流小説として展開し、そしてからSF的なアイデアが拡がっていくからだ。

 時代は1959年。主人公のレイグル・ガムは、『戦争が終り、世界の終りが始まった』のイシドールと同じように、妹夫婦の家に居候し、新聞の懸賞パズルに勝ちつづけ、毎日をパズルのために費やしている愚かなアウトサイダーである。SF的な設定については、細かく説明するとややこしくなるので簡単にまとめると、終盤に至って、実は彼が生きているのは、50年代ではなく1990年代であることがわかる。というのも、この主人公は、その時代の戦争のなかで、苛酷な使命を遂行し、その重圧のために、意識が、平穏だった50年代の少年時代に退行してしまったのだ。そこで、国家が、彼の周囲に50年代の世界を作り上げ、パズルに偽装して任務を続けさせていたというわけだ。

 要約すると、陳腐なアイデアのように思われるかもしれないが、こうした展開を通して見る50年代には、実に興味深いものがある。主人公がほんとうに体験した50年代は、少年の目から見た50年代で、退行した主人公は、46歳にしてもう一度50年代を生き、その時代を今度は大人の目で見直すことになる。


 
 
 


 この作られた50年代の世界のなかで、主人公が現実に疑問を抱くきっかけになるのは、目の前にあったはずのドリンク・スタンドが突然消えてしまうといった幻覚や、現実に符合しない雑誌や電話帳といった未来の断片が顔を出すことだが、この小説に説得力があるのは、46歳の主人公が50年代そのものに違和感を覚えているからでもある。

 たとえば、彼は、50年代の世界に対して、ホワイトの『組織のなかの人間』を想起させるような印象を持っている。

 奇妙なことにこの世界では、熱心に働いて昇進を狙うというタイプ、独創的な考えをまったく持たず、ネクタイの最後のひねり方や顎の剃り方まで自分のすぐ上にいる権威ある人々を真似する人間がどこでも注目されている。選ばれている。出世している。銀行、保険会社、大電気会社、ミサイル建造工場、大学。

 主人公の周りにいるのは、ホワイトのいうオーガニゼーション・マンばかりなのである。また、主人公が、過去へと退行する以前に体験したらしい離婚も、50年代に対する違和感に結びついていく。主人公の隣人ビルの妻ジャニーに対して、主人公はその体験をこのように語っている。

「とても明るくて機敏な娘だったが、わたしに大きすぎるほどの期待を抱いていた。ガーデンパーティ、中庭でのバーベキュー、そういったものを開ける身分になりたいという願望しか頭の中になかったんだ」
「そのどこがいけないのかわたしにはわからないわ」ジャニーが言う、「優雅な生活をおくりたいというのは自然なことよ」 この言葉は、彼女とビルが購読している雑誌の一冊『ベター・ホーム・アンド・ガーデン』の中から借用したものだった。

 「ベター・ホームズ・アンド・ガーデン」誌は、映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』でオードリーが、その広告に見入り、郊外の生活を夢見る雑誌だが、この主人公レイグル・ガムは、そんなメディアが作り上げるライフスタイルに違和感を覚えているのだ。

 主人公の少年時代には、50年代は商品に満ちあふれた楽しい世界だったが、大人になってその時代を見返したとき、彼の50年代からは確実にリアリティが失われていく。この作品は、小説が舞台にしているのと同じ59年にハードカバーで発表されたものだが、当時の人々は、このはりぼてのように崩壊してしまう50年代の世界を、果たしてどのように受け止めたのだろうか。


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(upload:2006/06/17)
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