第15章 崩壊する家庭とよみがえる50年代の亡霊 スティーヴン・キングの暗闇

 
line
(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)

【PAGE-02】

BACK

■■50年代の亡霊の正体とは――『クリスティーン』■■

 郊外の家庭を描くキングの作品のなかでも、この本で特に注目しておきたいのが、83年に刊行された『クリスティーン』である。この作品では、50年代という要素が、物語に深く関わってくるのだ。というのも、この小説におけるホラーのアイデアは、以前の持ち主の怨念が乗り移ったクルマ、テイルフィンが突きだした58年型のプリマス・フューリーであり、他の作品と違って、ホラー・イメージが、時代性や象徴性を持ちあわせているのである。そしてもし、これが50年代のクルマでなければ、小説の魅力は明らかに半減していたことだろう。

 『クリスティーン』の舞台は、ペンシルヴェニア州ピッツバーグの郊外の町リヴァティーヴィル。時代は、1978年である。主人公のアーニーは、家では母親に押さえ込まれ、学校ではいじめにあっている17歳の若者である。物語は、三部からなり、第二部は三人称で、第一部と第三部は、彼のただひとりの親友デニスの回想として綴られていく。

 主人公アーニーは、郊外の公営住宅の前庭に廃車寸前の状態で放置された58年型プリマス"クリスティーン"に魅せられ、異様なほどの情熱を傾けてこのクルマに手を加え、再び生命を吹き込む。しかし、クリスティーンには、以前の持ち主の怨霊が潜み、アーニーに乗り移り、彼らの自由を妨げるものを襲いだすのだ。それが、この章のタイトルの"よみがえる50年代の亡霊"というわけだ。そして物語は、アーニーとクリスティーン、彼のガールフレンドの三角関係、アーニーとデニスの家庭の対比などを織り交ぜながら、悲劇的な結末へと展開していくことになる。

 この小説もまた他の作品と同じように、一方に怨念が潜むクルマというホラー・イメージがあり、もう一方に、疎外された孤独な若者がいて、両者が共鳴することによって物語が展開していく。しかし、ホラー・イメージを背負うクルマが、時代や生活と深く結びついているために、恐怖の効果も他の作品とは異質な印象を受けるのだ。




●THE SHINING
by Stephen King (1977)
●CUJO
by Stephen King (1981)
●CHRISTINE
by Stephen King (1983)
●THINNER
by Richard Bachman (1984)

―――――――――――――

●『シャイニング』
スティーヴン・キング
深町眞理子訳/パシフィカ/1978年)
●『クージョ』
スティーヴン・キング
永井淳訳/新潮文庫/1983年)
●『クリスティーン』
スティーヴン・キング
深町眞理子訳/新潮文庫/1987年)
●『痩せゆく男』
リチャード・バックマン
真野明裕訳/文春文庫/1988年)
 
 


 まず、58年型プリマスのことから考えてみよう。このテイルフィンが派手に突きだした50年代のアメリカ車は、まさに大量消費時代の象徴である。そしてもちろん、このプリマスがピカピカの新車として走っていたころというのは、郊外化が急ピッチで進み、マス・マガジンの広告が夢の<アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ>をうたいあげ、真新しい電化製品が、洪水のような勢いで一般家庭に普及していった時代だった。

 それでは、小説のなかの現在である78年のピッツバーグ郊外のリバティーヴィルの町をキングがどのように描いているか、確かめてみよう。第一部のデニスの回想のなかで、この町は彼の言葉を通してこんなふうに描写されている。ちなみに、ここには、キングが得意とするブランドの列記がある。

この通りは、リバティーヴィルで育ったぼくのおふくろに言わせると、ケネディがダラスで暗殺されたいまから十五年ばかり前には、町でも指折りの魅力的な土地だったという。どうやら、せっかくのバーンスワロー・ドライブという名を捨てて、殺された大統領の名に変えたことが、けちのつきはじめだったらしい。というのも、一九六〇年代初めからこっち、この周辺の環境はだんだん悪化して、いわゆる準郊外住宅地になりさがってしまったからだ。いまでは、ドライブイン・シアター一軒、マクドナルド一軒、バーガー・キング一軒、アービーズが一軒、そしてビッグ・トゥエンティー・ボウリング場があり、そのほかに、ガソリン・スタンドも十軒近くある。

 それから、三つの地域に分けられるリバティーヴィルのなかで、あまり発展のなかった地域については、第二部でこんなふうに綴られている。

元来、この界隈は中流の住宅地だったが、一九四五年に軍需景気が去ってからは、年とともに徐々に零落し、見すぼらしくなってきた。その下降ははじめのうち緩慢だったが、六〇年代から七〇年代前半にかけて、しだいに加速がつき、いまでは、さらに困った問題が起きている。(中略)つまり、黒人がはいりこんできつつあるのだ。それはごく内輪の場でだけ口にされる――市内のもうすこし品のいい住宅地で、バーベキューのかまどや飲み物をかこんで。

 かつて中流の人々にとって夢の楽園だったリバティーヴィルの町は、60年代以降、しだいに環境が悪化し、着実に荒廃しつつあるのだ。

 では、そんな郊外の町のなかでアーニーとデニスの家庭は、どのように描かれているのだろう。まず、50年代末に、この町に新しい住宅を購入したデニスの一家はといえば、前の年にやっとローンを終えたばかりだった。父親には、他の夢もあったようだが、それは、マイホームの犠牲となった。裏庭のバーベキューのかまどを囲んで、長いフォークの先に抵当権証書を突き刺し、家族全員でそれを火にかざしてお祝いをするくだりは、荒廃する町の描写と重ねあわせてみると、あまりにも寂しい光景のように思える。

 一方、主人公でありアーニーの両親は、いささか矛盾した存在として描かれている。

 

いつもリベラルな考え方を標榜し、農場労働者だの、虐待されている妻だの、未婚の母だの、その他もろもろに肩入れしているくせに、いざ自分の息子のこととなると、厳重にアーニーを管理している。

 そうした矛盾が、後に触れるように、竣工の若者を奇妙な時代逆行の旅に追いやってしまうのである。

 50年代を象徴するようなクルマ"クリスティーン"は、そんな状況のなかで生命をふきかえすことになるわけだが、この展開をもう少し広い視野で見ると、その皮肉がいっそう鮮明になってくる。この小説は、78年に構想が固まり、83年に発表されている。そして、アメリカが、73年に続く第二次石油ショックに見舞われるのが七九年のことで、それを機に日本車のアメリカへの怒涛の進撃が開始される。厳密にいえば、小説の時代設定である78年には、まだ石油ショックは起こってないわけだが、小説が発表された83年以降にこの作品に接する読者は、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの夢がしぼみつつある郊外を、大量消費時代の亡霊のような58年型プリマスが走る光景に何ともいえない不穏な空気を感じることだろう。

 ちなみに、この小説のエピローグには、アーニーのガールフレンドだった娘が、悲劇の何年か後に結婚した相手が、ホンダのシヴィックに乗っていたというオチがついている。

 しかしながら、78年の変貌するアメリカの現実と50年代の世界は、どちらも一面的に描かれて、くっきりと対置されているわけではない。キングは、78年の世界に根深くはびこっている50年代的な価値観を、皮肉な表現でいやらしいほどに強調してもいる。たとえば、アーニーの母親の姉夫婦については、こんなふうに描かれている。

 あのリゴニアという絵に描いたような中流の郊外住宅地で、これまたありふれた郊外型の牧場ふう住宅をかまえている姉夫婦。その町では、いまだに大半の住人がアメリカ車を持ち、マクドナルドへ行くことを、れいれいしく"外食する"と呼んでいるのだ。

 また、デニスは父親のことを「父親業という"アメリカにおける偉大な仕事"を、そつなくこなしてきた」というように表現しているし、クリスティーンの以前の持ち主ルベイの弟は、次のような台詞を口にする。

 前庭の芝生で、車を錆びつくままにしといたりしたら、近所が黙ってないだろうからね。田舎でなら、それも大目に見てもらえるかもしれんが、わが合衆国の都市近郊住宅じゃ、むりというものだ。

 こうした表現からは、50年代に対する嫌悪感すら感じとることができる。そして、当然のことながら、こうした表現が積み重なっていけば、普通が普通に見えなくなっていくことになる。そうした空気は、物語が進行するに従って、クリスティーンを中心に広がっていく50年代のイメージをさらに不気味なものにしている。この小説では、各章の冒頭に、エディ・コクランやボー・ディドリー、チャック・ベリー、あるいは、スプリングスティーンといったロックン・ローラーたちが、クルマを歌った歌詞が引用されていたり、クリスティーンのラジオは、オールディーズしかかからないといったアイデアも盛り込まれているが、その効果は、ノスタルジーとは異質なものである。

 またこの小説には、クリスティーンと50年代に言及するこんな一節もある。


 
 
 


彼女は点々と錆の浮いた両サイドに、真新しいボンネット、一千マイルもありそうな長いテイルフィンをつきだして鎮座ましましていた。五〇年代という暗い、まぬけな時代に生まれた恐竜――石油長者といえば、みんなテキサスの出身だった時代、そしてヤンキーのドルが日本の円を思うぞんぶん蹴散らし、けっしてその逆ではなかった時代。カール・パーキンズがピンクのペダル・プッシャーのことを歌い、ジョニー・ホートンが一晩じゅう安酒場の堅木のフロアで踊りあかそうと歌い、そしてアメリカ最大のティーンのアイドルといえば、『サンセット77』に出ていた"クーキー"エド・バーンズだった時代。

 スティーヴン・キングは、スピルバーグと同じ1947年の生まれである。彼の両親は49年に離婚し、その後の50年代という時代を、キングは、母親と、養子で血の繋がりのない兄とともに、住居を転々とする生活を送っている。その時期に、彼は、50年代の侵略もののSFやホラー映画に引かれていくことになるのだが、キングが少なくとも50年代という時代を単純に楽天的な時代ととらえていないことは間違いないだろう。

 そして、『クリスティーン』の物語の終盤には、クリスティーンの走行距離計が逆回りすることによって、アーニーとデニスが、50年代に向かって時間をさかのぼるという展開が盛り込まれている。80年代と50年代の深い結びつきについて書いた前の章の内容を思い起こしてみると、そのイメージは、物語の枠組みを飛び越えて、意味深に思えるのではないだろうか。

 その部分は、デニスの言葉でこんなふうに綴られている。

 ぼくらは時をさかのぼった――さっきそう言ったはずだ。たしかに、現時点でのリバティーヴィルの街路は、いまなお存在していた。だがそれらはいずれも、薄いフィルムに焼きつけたよう――さながら、一九七〇年代末のリバティーヴィルを、サランラップに写しとり、それを過去の町並みにかぶせたような。しかし、その過去のほうが、なぜかいっそう現実的であり、それがぼくらにむかって死んだ手をさしのべ、ぼくらをとらえて、永遠のなかにひきずりこもうとしているみたいに思える。

 この50年代に向かって時間をさかのぼるくだりには、50年代に作り上げられてしまったものが放つ底知れぬ不気味なパワーを暗示するような、異様なリアリティが漂っている。

 そして、このように『クリスティーン』について細かく書いてきたのも、実は、キング自身が、クリスティーンのように50年代という要素を背負って現代を走っているモンスターのようなもののように思えるからなのだ。キングが50年代のSFやホラー映画などに強く影響されていることはよく知られているが、ここでいいたいのは、もっと抽象的な意味で50年代という時代性を背負っているのではないかということだ。あのいやらしいほどアメリカらしさを強調し、日常を非日常の領域に追い込んでしまうような過剰な文体というのは、極端ないい方をすれば、あらゆる意味で過剰な50年代の価値観と共鳴しているのではないかということだ。

 そういう意味では、アメリカン・ファミリーを崩壊に追いやるキングの過剰な文体こそが、"50年代の亡霊"なのかもしれない。


(upload:2006/06/12)
amazon.co.jpへ●

《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第16章 揺らぐ50年代のイメージ ■

 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp


back topへ



■home ■Movie ■Book ■Art ■Music ■Politics ■Life ■Others ■Digital ■Current Issues


copyright