第12章 郊外の子供たちのモノローグ

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 エリック・フィッシュルは、ニューヨーク郊外、ロングアイランドにあるポート・ワシントンという上流志向の強い白人だけの郊外住宅地に生まれ育った。雑誌「Vanity Fair」の84年5月号に載った彼のインタビューを含む記事によれば、彼は(84年の時点で)最近になって父親をとおして、自分が望まれて生まれた子供ではないことがはっきりしたと語っている。しかし、それはいつも彼が予感していたことだった。彼はいつも自分がここにいるべきではないと感じていた。彼が生まれてから母親がひどい鬱状態におちいったからだ。その母親は、セントルイスのWASPの家庭の出で、結局70年に自動車事故でこの世を去ってしまう。父親はオーストリアの移民の2世で、かつてはセールスマンだった。  

 フィッシュルは、『ぼくらを撃つな!』のリンダとまったく同世代で、66年に大学に通うようになってから本格的に絵の勉強をはじめた。彼はサンフランシスコに出ていってヒッピーになり、30人くらいの若者たちと共同生活をするが、まったくそこになじむことができなかった。自分がおかしいのだと思って、ドラッグに救いを求めようとするが、すぐに無駄なことだと悟り、フェニックスにある父親の新しい家に舞い戻った。こんなふうにみてくると、フィッシュルもまたリンダと同じように裕福な家庭に生まれ育ち、時流に流されるように消費とドラッグ・カルチャーの世界に呑みこまれかけたことがわかる。しかし、それから彼の人生は大きく転換する。

 彼はさまざまな模索を経た後に、都会でも郊外でもない地方に目を向け、漁民の生活と習慣を題材とした絵を描く。しかしその絵を友人から激しく酷評される。この友人の言葉は、フィッシュルに重くのしかかったことだろう。友人はこういったのだ。

そんなつくり話で自分をごまかすのはやめろよ。(作品に描かれた)この家族は、白人の、中流の、郊外のアメリカ人以外の何者でもない。

 この言葉にフィッシュルは腹を立てたが、結局、彼の意見が正しいことを悟る。つまり、フィッシュルが否定し、自分の記憶から消し去ろうとしていた郊外の世界での体験というものが、ドラッグを使っても、漁民の生活に同化しようとしても、決してぬぐいさることができないことを痛感したのだ。そこで彼は、過去をもう一度ふりかえることによって、自分の作風を切り開いていくのだ。彼はそんな世界で体験した悲劇について、次のように語っているが、その内容は彼の作風の出発点を知るうえでとても興味深い。

母親はアルコール中毒だった。ぼくの家庭は、母親の病気を治そうと固く結束していた。そして、母親の死という悲劇が、ぼくたちをバラバラにした。病んだ親を持つということは、とても大きな問題だ。母親を救うことができなかったのは、自分の責任のように感じる。ぼくの作品はどれも自伝的なものではないけれども、作品のトーンはどれも少年時代と関係している。

 
 
 
 


 さきほど紹介したフィッシュルの<Bad Boy>は、郊外の子供だった彼のこうした模索から生まれたわけだ。漁民の生活を描いたつもりが、友人から「白人の、中流の、郊外のアメリカ人」の家族とはっきり指摘されてしまうほど、彼の脳裏に焼きついてしまったアメリカン・ファミリーのイメージ。フィッシュルはそのイメージの向こう側にうごめく感情やドラマの断片を拾い集め、複雑に構成し、郊外居住者の無意識の世界をかいま見るように、自分の世界をつくりあげていったのだろう。

 そして<Bad Boy>以後の作品である<The Old Man’s Boat and the Old Man’s Dog>(82年)や<Cargo Cults>(84年)では、ストーリー性に加えて、現実と夢が入り混じるような要素がさらに色濃くなり、見る者の無意識の領域に訴えかけてくる。

 <The Old Man’s Boat and the Old Man’s Dog>では、海に浮かぶボートが描かれている。ボートに乗っている全裸の男女の姿は乱交のようにもみえるが、海に目を移すと、空はどんよりと曇り、そそり立つ波涛がボートに迫るような危機的状況を感じさせもする。ボートのうえでは、1匹の犬が牙をむいて凶暴性をあらわにしているにもかかわらず、男は酒をかたむけ、女も平然としている。一方、<Cargo Cults>の舞台は、ヌーディストのビーチだ。こちらに背を向け、波打ち際を行く太った女たちに声をかける裸の男。パンナムのロゴの入ったバッグをわきに置き、制服とも思えるかっこうでくつろぐ白人の男たち。そして左側から、シャーマンを思わせるかっこうで刃物をかざす黒人の男が近づいてくる。

 おそらくこの説明だけでも、<Bad Boy>について書いた親密さと緊張のバランスが、さらに研ぎ澄まされていることがおわかりいただけるだろう。もちろんそれは、彼のイメージが、裸体の集団や人種、階層といった要素へと広がっているためでもある。ブルーを基調としたその世界には、さらに印象的な親密さと緊張が微妙に入り混じり、過激な社会性とも夢の形象化ともいえない奇妙なリアリティが広がっていく。これはあるいは、画一化された世界で成長した郊外の子供の想像力によって、アメリカン・ファミリーの内側と郊外の外の世界からたぐり寄せたイメージが複雑に交錯し、構築された世界なのかもしれない。

 ところで、「Vanity Fair」誌に載ったフィッシュルのコメントのなかで、筆者が最も印象的だったのは次のような言葉である。

ぼくと同じ世代に属しているアーティストはみんなひどい絶望感を味わってきている。ぼくらは、まさにアメリカン・ドリームにはめられたんだ。その実体は、イメージと商品の契約にすぎない。アメリカン・ドリームの大部分は、視覚の産物なんだ。あれはまやかしだ、つまり完璧にできすぎてるってことだ。ぼくは、何年か前にフェニックスで父親の家の近所を散歩して、憂鬱になった。ひっそりした、ほんとに静まりかえったなかに、車寄せの車、色のついた砂利とサボテンのある芝生、ランチ・スタイルの家が並んでいるんだよ。歩きながら、何もかもがいかに“完璧”であるのか目の当たりにして、ぼくのなかに息づく感性が、こんな環境にはとても耐えられないということを痛感したんだ。

 郊外の生活というアメリカン・ドリームを、フィッシュルがいうように視覚の産物と仮定するなら、フィッシュル自身はそれがあまりにも完璧であるがゆえに視覚の産物と見抜いたわけだが、これを一般の人々に置き換えて考えてみるなら、彼らはそれがあまりにも完璧であるがゆえに、現実と信じ込んでしまったといえる。そういう意味では、フィッシュルが目指しているのは、つくりあげられたアメリカン・ドリームのイメージに封じ込められ、日常の奥深くでうごめくもろもろの感情を、独特のスタイルをとおして引き出してみせることだともいえるだろう。

***

 さて今度は、郊外の子供のなかでももうすこし若い世代の体験にスポットをあててみたい。とりあげるのは、ベッツィ・イスラエルの『Grown-up Fast』という本である。これは、郊外の世界で成長した著者が、郊外における生活と体験を綴ったノンフィクションで、88年に出版されている。

 『Grown-up Fast』は1985年、すでに郊外の町を巣立ち、編集の仕事をしている著者が、ニューヨークの街角でひと目で郊外で暮らす家族だとわかる両親と娘の三人連れを見かけるところから始まる。この出来事をきっかけとして、彼女の過去が綴られていく。前の章の『ポリエステル』の話のところで、80年代は家族が再び見直される時代であると書いたが、著者がそうした時代背景を反映するような80年代の家族を見かけて、過去の郊外の生活を振り返るというのは、なかなか意味深である。

 このノンフィクションの舞台になるのは、ロングアイランドにあるマサピークアという郊外の町である。クイーンズのアパートに住んでいた彼女の両親は、ある晩、キッチンで地図を広げ、都心から半径40マイルの円を描いてみた。マサピークアはその円に入るぎりぎりの町だった。著者が生まれたのは1958年のことで、両親は彼女が生まれるとすぐにこの郊外の町に転居したという。58年生まれのベッツィは、スピルバーグやフィッシュルよりもだいたい10歳若い世代ということになる。

 そんな彼女の郊外体験は、まず最初に人種の問題がひとつの壁となる。というのも彼女の父親は、厳格なユダヤ教徒の両親のあいだに生まれたひとり息子だったのだ。彼女はユダヤ系であることから、学校などで差別的な扱いを受けることにもなるのだが、彼女の視点で綴られたこの本を読むかぎりでは、家庭というか両親にも問題があったように思える。ユダヤ系の家庭では、アイデンティティを明確にするという意味も含めて、両親が子供の教育に熱心である場合もすくなくないが、彼女の両親は、子供に無関心とはいえないものの、ユダヤ系であることを子供にまったく示そうとはしなかった。彼女の父親は、勤め先の反ユダヤ主義のせいで転職するという憂き目にあっているにもかかわらず、娘が小学校に通うようになってもそうした知識を与えようとはしないのだ。

 それは、彼女が女性であるということとも無縁ではないかもしれない。ユダヤ系のジャーナリストであるチャールズ・E・シルバーマンは、80年代に発表した著書『アメリカのユダヤ人』のなかで、女性の立場についてこのように書いている。「最近にいたるまでユダヤ教は、ユダヤ民族全体ではなく、その半分の男性にささえられてきたにすぎない」。そういう事情から、両親が娘の教育にそれほど熱心ではなかったということも考えられないではない。

 ベッツィが通う学校では、学年が上にいくにしたがって、聖体拝領にはじまるカトリックの子供たちのための活動や行事が増えていく。彼女はそのたびに教室に取り残されたり、活動からはずされていくことになる。そしてしだいに、服装や振る舞いまでが周囲の子供たちと変わっていく。それ以外にもユダヤ人を蔑視するようなニックネームで呼ばれたり、「ユダヤ人と黒人は殺される」というようなことをいわれることもあったが、彼女には何の予備知識もないため、すべてが一方的に彼女を孤立させる要因となってしまう。

 郊外の世界における民族のアイデンティティの問題については、第6章や第9章のオウエンズの写真集などでふれたが、彼女の両親はどうやらあまり伝統にこだわらず、郊外の世界に同化するつもりでこの町に転居してきたようだ。そして実際、同化しているつもりだった。しかしベッツィは、学校や家庭から孤立し、70年代に入ったころから非行への道を歩みだし、13〜14歳で不良グループとつきあうようになる。それと同時に、彼女の郊外体験は、人種の問題からもっと視野が広がっていく。彼女の語りのなかには“サバーバン・パンク”という言葉も出てくるように、この郊外の世界のなかでは、それぞれに複雑な事情を抱えた家庭の子供たちがグループとなり、縄張りをつくっているのである。

 これがフィッシュルの時代であれば、すぐにドラッグ・カルチャーやヒッピーに結びつくところだが、この本に出てくる子供たちは、年齢的に追いつくこともできないし、「ピッピーは死んだ」というグループのメンバーの言葉が物語るように、そうしたムーヴメントに対してすでに醒めてしまっている。そして、まわりを見渡せば、郊外の風景は目まぐるしく変化していく。マサピークアにはショッピング・センターよりもはるかに規模の大きなショッピング・モールができあがり、それにあわせてハイウェイが拡張され、古いショッピング・センターは次々と消え去っていく。ベッツィは、71年には小さいころに見ていたマサピークアの面影はほとんどなくなっていたと書いているが、そんな目まぐるしく変化する世界のなかで、子供たちはリアリティを失っていくのだ。

 ベッツィのなぐさめは、愛しているとはいえないボーイ・フレンドとのセックスとマリファナだけだった。しかし、ハイスクールのプロムの夜に間違いが起こってしまう。彼女は妊娠してしまうのだ。彼女は誰にも相談することができず、腹部のふくらみが誰の目にも明らかになるまでしらを切りとおす。結局、両親が娘を病院に連れていき、彼女は子供を産む。その子供は両親が探してきた法律家の仲介で、彼女の知らないユダヤ人家庭に引き取られる。

 この本で最後に驚かされるのは、仲介にあたった法律家のその後である。ベッツィは何年かしてから、新聞記事でその法律家が、3年間に24人の赤ん坊を23組の家庭に売り、17万ドルの利益をあげていたことで告発されているのを知る。この件についてはそれ以上詳しい記述がないので、それがすべて郊外の悲劇から生まれた赤ん坊かどうか定かではないが、どうも郊外と結びついているような気がしてならない。

 ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』には、ディヴァイン一家のライバル、マーブル一家が、女たちを誘拐、監禁し、強姦して子供を産ませ、赤ん坊を高額で売りさばくという“バッド・テイスト”があったが、この法律家の話を読むと、あのエピソードがひどく象徴的に思えてくる。

***

 この章の最後に、ノンフィクションではないが、ベッツィよりもさらに若い世代の郊外の子供たちを主人公にした映画を1本とりあげておきたい。それはロジャー・コーマンが製作にあたり、後に『ウェインズ・ワールド』で注目されるペネロープ・スフィーリスが監督した劇場未公開作品で、タイトルもずばり『Suburbia』(84年)という映画である。この作品は『反逆のパンク・ロック』という邦題でビデオ化されている。

 時代設定は、後で説明するような理由で、おそらくは70年代の終わりから80年代の初頭だと思われる。舞台は、時代の流れのなかで荒廃しつつある郊外の町だ。主人公の少年は母子家庭の子供で、彼の母親は仕事に疲れ、酒を飲んでは子供にあたりちらす。映画はそんな母親と争った少年が家出するところから始まる。余談ながら、ビデオのタイトルは、次のような展開からヒントを得たようだ。家出した少年は、パンクのライブをやっている町のライブハウスで、さきほどのベッツィがいうところの“サバーバン・パンク”のリーダーと知り合う。そのリーダーは、おんぼろ公営住宅を改造し、そこでは家出した若者たちが共同生活を送っている。

 その公営住宅の住人になることに決めた主人公の少年は、リーダーの運転するクルマのなかで、家から持ち出してきた母親の日記の朗読を始める。「1965年5月、念願の郊外に引っ越した。空は青く、空気は新鮮。郊外の住宅地はユートピアだ。理想的な環境で子供が産める。夫の仕事も決まり、わたしは専業主婦」。そんな母親の夢が無惨な結末を迎えていることはもはや説明不要だろう。そしてこの日記から察すると、主人公の少年が生まれたのは、引っ越してから何年もしない時期と考えてよいだろう。

 改造された公営住宅で共同生活しているのは、両親が離婚したり、父親がホモになったり、あるいは父親に年中折檻されているティーンエイジャーたちだ。彼らはそれぞれの両親の家から食料を盗み出し、スーパーで悪さをはたらき、しだいに郊外のコミュニティと対立していく。全体としてはあくまでB級映画だが、ドラマには妙にリアルなところがある。たとえば、白昼堂々と銃で野犬狩りをしている男たちがいる。実は彼らは12年以上もGM社に勤めながら首にされ、郊外での生活が苦しくなり、その鬱憤をはらしているのである。そうした不満が、ティーンエイジャーとの郊外戦争に発展していく。さきほどこの映画の時代設定を70年代の終わりから80年代初頭としたのは、おそらく人々が第二次オイルショックのあおりを受けている時期ではないかと思ったからだ。

 しかしこの映画には、そうした設定よりもさらにリアルで、はっとさせられるような場面がある。それはティーエイジャーたちが、ある家の庭から人工芝をはがしてショッピング・センターまで運び、その一角にある電気製品店のウィンドーの前に広げ、そのうえに座り込んでウィンドーに並ぶテレビに見入る場面だ。テレビの画面から浮かび上がるのは核爆発をとらえた映像だ。この場面は、人工の楽園で生まれ育った子供たちの、どこか虚無的で希薄な生を象徴しているようで、とても印象に残るのだ。

《参照/引用文献》
“Bad Boy of Brilliance”●
by Peter Schjeldahl, Vanity Fair, May 1984
「アメリカのユダヤ人」チャールズ・E・シルバーマン●
武田尚子訳(サイマル出版会、1988年)
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(upload:2002/04/15)
 

《関連リンク》
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