第11章 ボルティモアの郊外から噴きだすバッド・テイスト――ジョン・ウォーターズの挑発

line
【PAGE-2】

BACK


 こうしたウォーターズ作品のなかで、郊外に対する悪意が最も明確に出ているのが、『ピンク・フラミンゴ』の4年後の76年に発表した『デスペレート・リビング』だろう。それまでの作品では、郊外がデフォルメされていたり、象徴的に描かれたりしていたが、この作品の前半では、郊外の生活が悪意を込めて、ストレートに描きだされる。

 映画は、郊外に暮らすある一家のドラマから始まる。主人公のグリゼルダは重症のノイローゼで入院していたが、彼女の夫は医師の忠告に耳を貸さず、彼女を家に連れ戻してしまう。ところが、このノイローゼ妻は、窓ガラスを割って飛び込んできた草野球のボールに絶叫し、命を狙われたと騒ぎだす。間違い電話がかかってくると、自分の人生を30秒も盗んだ泥棒だといってどなりちらす。メイドに窓ガラスの一件を伝えるころには、ボールが飛び込んだことがライフルで狙われたことにかわっている。子供たちが無邪気にお医者さんごっこをしているのを目撃すると、変態、幼児セックス、乱交パーティとわめきだす。夫に対しては、汚らわしいといって身体をさわらせない。この妻はついには、あまり行儀のよくないメイドと結託し、夫を殺してしまう。メイドとクルマで逃走する彼女は、道の両側に広がる森林を見ながら、緑の林が自分の酸素を盗んでいるから自然はすべて住宅に変えてしまえというような台詞を口にするのだ。

 この映画は、オープニング・クレジットからして念がいっている。その背景は、カメラが上からとらえた食卓で、ナイフやフォーク、皿などがきれいに並べられ、クレジットとともに食事が進んでいく。一見おとなしいイメージに見えるが、よくよく見れば皿に盛られているのはネズミの丸焼きである。固定されたカメラがとらえるのは食卓だけで、食べている人間の姿は手だけしか映らないが、このメイン・ディッシュはナイフとフォークで切り分けられ、肉が画面から消えたかと思うと、食べかすがもどってきて皿のわきにのけられる。このネズミ自体は、映画の後半の舞台となるモートヴィルの世界と深く結びつくが、同時にこの食事には、表面的には秩序を保ち、平静を装ってはいるが、その内側ではなにをしているかわからないというような暗示があり、この前半のドラマに呼応してもいる。

 夫を殺したグリゼルダは、メイドとともにそのモートヴィルという無法者たちの王国に逃げ込む。この王国のイメージは、ウォーターズ自身が『オズの魔法使い』に影響されたと語っている。そこには、ホモやホームレス、ヒッピーたちがうろつき、都市のスラムをデフォルメしているようにもみえる。この無法者たちの王国のなかで、グリゼルダのような境遇の人間は必ずしも例外的な存在ではない。グリゼルダが居候することになったあばら家に住む女の昔話からも、郊外のドラマが浮かび上がってくる。

 
 


 その女は、2年前までは夫と赤ん坊と3人で郊外で幸福な生活を送っていた。彼女の回想は、夫婦がとあるパーティから家路につくところから始まる。酔ったふたりはクルマのなかで、どちらがベビーシッターを家に送るか口論しだす。ところが家に帰り着いてみると、ベビーシッターが友だちを集めて、滅茶苦茶なパーティを繰り広げている。ベビーシッター本人は、夫婦のベッドでセックスの真っ最中だ。そして、自分の赤ん坊が冷蔵庫のなかにしまわれていたことに激昂した母親は、ベビーシッターをフライパンでなぐりつけ、皿に入ったドッグフードに顔を押しつけて窒息死させてしまう。そればかりか、逃げ出した彼女は、追ってくる夫の首をウィンドーにはさんだままクルマを出し、夫も殺してしまう。そんなわけで彼女は、モートヴィルに暮らす身となったのだ。

 そのモートヴィルのなかでグリゼルダは、王国を支配する女王にとりいろうと仲間を裏切り、冷酷な残虐性をあらわにするのだが、ウォーターズは、上品な郊外に住んでいる人間こそひと皮むけばなにをするかわかったものではないといいたげである。

***

 さて、60年代からたどってきたウォーターズの監督としてのキャリアも、いよいよ80年代に突入する。彼の81年の作品『ポリエステル』は、臭いの出る映画“オドラマ”として話題になったが、この作品は時代背景を念頭においてみると実に楽しめる。80年代は激動の時代も遠ざかり、家庭が見直される。たとえば、80年に公開されたロバート・レッドフォードの『普通の人々』が、地味な作品ながら大きな話題になったことは、それをよく物語っている。そうした80年代の家庭や『普通の人々』については第14章でくわしく書くことにするが、ここではそんな背景をふまえて『ポリエステル』に注目することにしたい。

 『ポリエステル』は郊外の中流家庭をじっくり見据えるという意味では、ウォーターズ版『普通の人々』といえる。しかしもちろん、ウォーターズなりの視点というのは半端ではない。映画の舞台は、まるでゴルフ場のように緑が美しい郊外の町で、そこに暮らす4人家族のドラマがじっくりと描きだされる。この映画では、ディヴァインが珍しく郊外の貞淑な主婦の役を怪演している。ウォーターズは映画の冒頭から、きちんと片づけられた主人公一家の家のなかの様子を映しだし、普通の中流家庭のイメージを作り上げていく。しかし母親以外の家族たちの登場とともに、そんなイメージは揺らぎだす。

 まず一家の主は、街でポルノ専門の映画館を経営している。当然のごとくこの郊外のコミュニティではポルノ反対運動が起こり、彼らの家には近隣の住民たちからなる抗議のデモ隊が押しかけるうえに、テレビのニュースの取材陣までやってくる。ところがこの一家の主は、映画館の宣伝に好都合とひらきなおり、一日中家にいる妻だけが抗議の的となり、白い目で見られることになる。ふたりの子供たちのうち、姉の方は、“ヒップ”を気取った男を追いかけまわして遊び歩き、妊娠していることが判明する。弟はハイヒールに対する強力なフェティシズムの持ち主で、素敵なハイヒールを履いた女のつまさきを思い切り踏みつけることを至上の喜びとしている。そのために彼は、警察から追われるはめになる。

 ウォーターズはそんなふうにして、普通の中流家庭という枠組みのなかに、最悪の出来事を次々と盛り込んでいく。ディヴァイン扮する主婦は、あまりの心労と苦痛からキッチンドランカーとなり、ノイローゼ状態におちいる。それでも最悪のドラマはまだまだつづいていくが、最後の最後で母親とふたりの子供たちはなんとか絆を取り戻す。そのとき、感極まった母親が涙ながらに口にする台詞は、この映画の最大の皮肉だろう。それは「普通って難しいことじゃないのね」という台詞なのだ。

 くわしくは第14章にゆずるが、ここで筆者が思い出すのは、映画『普通の人々』の原作者ジュディス・ゲストが、「今日では、平凡で普通の人々をよしと評価する傾向が強まってきていると思います」と語っていたことだ。ウォーターズにしてみれば、これは胸くそが悪くなるような言葉だろう。『ポリエステル』とは、ウォーターズがゲストの語るような世相を反映し、“普通”を望む主婦を登場させ、普通というものを徹底的に挑発しようとした映画ではないかと思う。そこには、郊外の日常をすべて普通としてしまうことに対する反発が込められている。

 この『ポリエステル』には、ドラマのなかのテレビでシャロン・テート事件の犯人脱獄のニュースが流れるなど、さきほど説明したウォーターズのダーク・サイドへのこだわりが、わずかながら顔を出す。この章の冒頭で紹介した彼のエッセイ集『クラックポット』には、そうした異常な事件と郊外の関係をめぐってなかなか興味深い記述がある。それはLA案内のつづきの部分なのだが、話はだんだんLAから遠ざかり、チャールズ・マンソン・ファミリーの本拠地だったスパーン牧場見物の勧めとなる。その部分で彼はこんなふうに書いている。

ただ、この旅は急ぐに越したことはない。というのは、将来ここには草一片残らないおそれがあるからだ。何台ものブルドーザーが輪を描き、“地獄の炎”の最後の痕跡を消そうとしている。あとには何が来るのだろう? 建売住宅? スパーン宅地? ばらばらにされ、ここに埋められたという牧童、ショーティ・シェイの死体のかけらはどうなってしまうのか? やがていつか、神を畏れて暮らす、どこかの中流家庭が、新しく引っ越してきた土地に庭を作ろうとして、ちぎれた指を見つけるというようなことが起こるのだろうか?

 “普通”の波が押し寄せてきて、異常の歴史をすべて埋め尽くそうとする。郊外の子供であるウォーターズは、郊外の“普通”から排除された、あるいは“普通”のなかに隠蔽されたものをかき集め、“バッド・テイスト”をつくりあげていった。そういう意味では、郊外の世界を挑発するバッド・テイストをつくりあげたのは、郊外の世界であるともいえるわけだ。

***

 インディペンデント映画の顔役だったウォーターズは、87年の『ヘアスプレー』でメジャーへの進出を果たす。それと同時に、彼は意識して過去を振り返るようになる。『ヘアスプレー』は、一見すると懐かしい音楽やダンスがふんだんに盛り込まれ、露骨なバッド・テイストは影をひそめ、ノスタルジックな青春映画にみえる。しかし、よくみればそこにはウォーターズの貫禄というか、キャリアの重みがにじみ出ている。都市と郊外の距離、あるいは人種差別の問題などが、あたりまえのように、それゆえにさり気なく描き込まれているのである。

 『ヘアスプレー』の舞台は、1963年のボルティモアで、主人公は、黒人音楽とダンスに熱中するティーンの娘トレイシー。63年といえばウォーターズは17歳で、おそらくは同時代的な視点が彼女のキャラクターに投影されているのだろう。あるいは、もっと正確には、当時のウォーターズの憧れが彼女に投影されているというべきかもしれない。というのも、トレイシーはウォーターズのように山の手のお坊ちゃんではなく、街のクリーニング屋の娘だからだ。彼女の母親に扮し、アイロンがけに精を出すのは、これがウォーターズ作品への最後の出演となったディヴァイン。この話のわかる肝っ玉母さんのおかげでトレイシーは、テレビで人気のダンス番組に出演し、街の人気者になるのだ。

 そんなトレイシーの大親友のペニーは郊外育ちの娘で、ふたりの関係は都市と郊外のコントラストをつくっている。また、ダンス・コンテストでトレイシーのライバルになるアンバーの父親は、街の遊園地の経営者だが、黒人を入園させない方針を貫き、問題が表面化しつつある。青春映画の背後でドラマを動かしているのは、こうした60年代の家庭や人種問題なのだ。ドラマのなかでは、パーティやコンテストに黒人のカップルを入れるかどうかの討論が行われ、終盤では問題の遊園地で黒人の暴動が起こる。

 そんな問題にからんでこの映画でいちばん笑わせてくれるのは、郊外育ちのペニーの母親である。この母親は、トレイシーといっしょに黒人街にいりびたっている娘を連れ戻すために、黒人街にやって来る。ところが、黒人のホームレスが寄ってきただけで右往左往し、黒人たちにまじって踊る娘を見て、恐怖のあまり警官に助けを求めるのだが、その警官も黒人だとわかって一目散に平和なわが家へと逃げ帰るのである。

 メジャーでこんな堂々とした映画をつくってしまうウォーターズはただ者ではないが、彼は90年にまたもメジャーで、今度は54年のボルティモアを舞台にした『クライ・ベイビー』をつくる。この作品は、本書のひとつのポイントになる50年代というテーマと深くかかわっているので、第16章であらためてとりあげることにする。

【PAGE-2】
《参照/引用文献》
『クラックポット』ジョン・ウォーターズ●
伊藤典夫訳(徳間書店、1991)
Midnight Movies●
by Stuart Samuels(Collier Books, 1983)
A Critical Cinema : Interviews with Independent Filmmakers●
by Scott Macdonald(University of California Press, 1988)

(upload:2002/04/07)
 

《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第12章 郊外の子供たちのモノローグ ■
サバービアの理想的な主婦像と表層や秩序に囚われたコミュニティ
――ウォーターズの『シリアル・ママ』とハミルトンの『A Map of the World』
■

amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp
 

back topへ




■home ■Movie ■Book ■Art ■Music ■Politics ■Life ■Others ■Digital ■Current Issues


copyright