第7章 変わりゆくアメリカの風景―郊外の観察者ジョン・チーヴァー

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 作家として39歳の時点ですでに20年以上のキャリアがあったチーヴァーは、こうして郊外との出会いによって“自分の場所”を見出す。彼は、56年から57年にかけて家族とともにイタリアで暮らした時期を除いて、50年代をスカーボローで過ごし、61年には2、3マイル北にあるオシニングに移り、郊外の世界を見つめつづける。スカーボローやオシニングをモデルにした彼の短編には、郊外における彼の体験が投影されているにちがいない。

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 それではチーヴァー自身の郊外の生活が明らかになってきたところで、あらためて彼の短編を振り返ってみることにしよう。まずは先ほど取りあげた「The Country Husband」の主人公フランシスのことを思い出していただきたい。隣人のパーティで「人間的な過ち」を犯しかけ、コミュニティのなかの暗黙の了解がつくりあげる平穏な日常に気づいてしまった彼は、忘れ去っていた過去や自分の率直な感情に目覚めてしまう。

 それだけにアメリカ文学史の本などをひもといてみると、チーヴァーについては、次の章に登場するジョン・アップダイクとともに、郊外の中流家庭を描く作家として、すでに評価が確立されている。しかし、これまで書いてきたような50年代の郊外に関する基礎知識を踏まえて彼の作品を振り返ってみると、文学的な評価とはまた違った意味で、彼が描く世界がリアルで興味深いものになるのではないかと思う。

 パーティから戻ったフランシスは、ベビーシッターがいつもの年取ったハインライン夫人ではなく、若い娘だったことに驚き、その娘アンに恋をしてしまう。暗黙の了解に支配された世界のなかで彼は、彼女に自分を解放してくれるような救いを見出す。その一方では、偶然に出会った町の古株であるライトソン夫人に失礼な態度をとってしまう。そしてフランシスはこんなふうに思う。

 彼がわざと無作法な態度をとることを楽しんでいたころから、いかに長い年月が過ぎてしまったのかという実感が酔いをさました。友人や隣人たちのなかには、すばらしい才能に恵まれた人々がいた――それは間違いない――しかし同時に、彼らの大半は、退屈で愚かな人間だった。彼は、全員に同じように注意をはらって耳を傾けるという過ちを犯していた。

 自分を取り戻したかのようにふるまうフランシスだったが、同じ町に住む若者クレイトン・トマスとの対話が、彼の感情を微妙な場所に押しやる。クレイトンの父親は戦死し、彼の家はシェイディ・ヒルで唯一の母子家庭だった。クレイトンは大学に通っていたが、以前に盗みの問題を起こし、しばらくカリフォルニアで暮らしていた。そのクレイトンとフランシス、妻のジュリアのあいだでこんな会話がかわされる。

 
 
 
 


「いつ大学に戻るんだね、クレイトン」とフランシスがたずねた。
「戻りません」とクレイトン。「母にはそんな余裕がないし、うわべを装ってもしかたないですから。ぼくは仕事について、家が売れたらいっしょにニューヨークのアパートに住むつもりです」
「シェイディ・ヒルを離れるのは寂しいでしょう」とジュリアがたずねた。
「いえ、ここは好きじゃないんです」とクレイトンが答えた。
「なぜだね?」とフランシス。
「いいとは思えないことがいろいろあって」とクレイトンは、思いつめたように話しだした。「クラブのダンス会とかのことです。先週の土曜の晩、部屋のすみに目をやったら、グラナーさんが、マイノット夫人をトロフィーが並んだケースに押し込もうとしていたんです。ぼくはあんなに飲むことに賛成できません」
「土曜の晩だからさ」とフランシスが言った。
「この平和の里はすべてがまやかしなんです」とクレイトンが言った。「みんなで自分たちの生活を混乱させているんですよ。そのことをずいぶん考えました。ぼくにすれば、シェイディ・ヒルのいちばんの問題点は、まったく未来がないということだと思うんです。あまりにもたくさんのエネルギーがこの場所を守ること――好ましくないものをしめ出すというようなことですけど――そういうことに費やされているために、人が未来について考えることといえば、通勤電車とパーティばかりになっていくんです。まともなことだとは思えません。ぼくは、人は未来に対して大きな夢を持てるはずだと思います。もっとすごい夢を持てるんですよ」

 しかもフランシスは、クレイトンがベビーシッターのアンと婚約していることを知らされる。ショックを受けた彼は、自分を取り戻すどころか、自分の居場所を見失っていく。

 過去や未来、夢や欲望、若さと喪失など、フランシスのなかで交錯するさまざまな感情が、気づかぬうちに彼をコミュニティの異分子に追いやっていくのだ。シェイディ・ヒルを牛耳るライトソン夫人は、彼をパーティからつまはじきにし、子供たちも仲間はずれにされる。夫に対する妻の恨みも吹き出してくる。追い詰められた彼は、精神科医のところに飛び込み、治療法として木工を勧められる。彼は結局、木工の作業のなかに慰め、ささやかな幸福を見出す。飛行機事故で自分の命が危険にさらされるよりも、郊外のコミュニティのなかで孤立するというもっと恐ろしい体験をへて、フランシスは平和なコミュニティに復帰するというわけだ。

 本書の第2章で、50年代の郊外化の背景には、大衆の政治や核の脅威からの逃避といった感情もはたらいていると書いたが、次に取りあげる短編「ライソン夫妻の秘密」からは、そんな背景も浮かび上がってくる。舞台は同じくシェイディ・ヒルで、主人公のライソン夫妻が郊外の理想を追求することを唯一の生きがいにしているようなカップルであることは、作品の冒頭だけでもよくわかる。

 ライソン夫妻は、郊外住宅地シェイディ・ヒルのもろもろのことがいつもきちんとしていることを望んでいた。彼らは変化を、秩序が少しでも乱れることをおそれていた。ラーキン家の土地が養老院に売却されたときなどライソン夫妻は町議会まで出かけていき、どんな老人が入居してくるのか説明を求めた。ライソン夫妻の公的活動は地域美化の問題に限られていたが、この問題に関してだけは彼らは実に積極的だった。(中略)たしかに誰でも自分の住む町のよさは保っておきたいと思うものだが、ライソン夫妻の場合は少し度が過ぎていた。

 彼らは、「庭のバラをダメにしたり不動産価値を損ねたりする始末に負えない子供たちの父親」などがいないかどうか、町のなかで目を光らせているような夫婦だ。新しい郊外では、個人や家庭の問題が共同体全体の価値観を揺るがしかねないということはすでに触れたとおりだが、彼らはそれを象徴するような人物ということになる。前に取りあげた2本の短編の主人公は、郊外の秩序から逸脱しかかる人物だったが、彼らはあくまで秩序を守ろうとする立場にある。

 ところで、ライソン夫人は奇妙な夢を見ることがある。

 彼女は月に一度か二度、敵か、運の悪いアメリカ人のパイロットか誰かが水爆を爆発させてしまう夢を見た。昼間の明るい光のなかにいるときは、自分がどうしてそんな夢を見るのか、彼女には理解できなかった。その夢は、日常的な彼女の家の庭とも、彼女が町の秩序に神経質になっていることとも、快適な暮らしとも関係がなかったからだ。

 これは郊外の明るい世界と影の部分のコントラストが浮かび上がる文章だ。ライソン夫妻は、郊外の外見には一生懸命になって気を配っているが、内側のことを忘れている。ふたりは文化的な活動には一切加わらないし、家には読むべき本もない。要するに中身が空っぽなのだ。そこで、外見にこだわればこだわるほど、意識的であるにせよ無意識にせよ、内面の空白を埋めようとする力が働くのではないかと思う。ライソン夫人の場合には、無意識のなかにある不安が、空洞に広がり、夢のなかに具体化される。彼女の夢の結末は、いささか皮肉な表現のようにも思えるが、このように締めくくられる。

 シェイディ・ヒルでの彼女の穏やかな生活は、単なる一時的な気休めでしかないことを、彼女はあたかもずっと気づいていたかのように、目の前の光景を見続ける。

 こうした展開は深刻な話を思わせるが、チーヴァーはそこから奇妙なユーモアを生み出す。夫のドナルドはライソン夫人と違って、意識的に内なる空洞を埋めている。空洞を埋めるのはノスタルジーである。彼にとって少年時代の唯一の幸福な思い出は、母親のつくるケーキだった。そこで一年に一度ぐらいの割で、妻が眠っているあいだにひとりでケーキを作り、ノスタルジーにひたっていたのだ。

 ところがある晩、水爆の悪夢とケーキの思い出が重なってしまう。夢から覚めた夫人は、ケーキがこげて出た煙を死の灰だと思い込む。その誤解はすぐにとけるが、「彼らは以前にもまして人生がわからなくなっていた。そして以前にもまして外見をきちんとすることに努力しようと思っていた」という結びは、皮肉なようでもあり、またもの悲しくもあり、不思議な余韻を漂わせる。

 郊外を舞台にしたチーヴァーの短編は数多いが、最後にもう一本、「ジャスティーナの死」という作品を取りあげてみたい。土地利用規制法(ゾーニング)にいついては、第6章で人種差別に利用されたと書いた。あの場合は、この法律を使って敷地面積をある程度の広さに定め、低所得者層が郊外に入ってくることを阻止したということだが、「ジャスティーナの死」では、この土地利用規制法が人種差別ではなく死と結びつくかたちで物語に盛り込まれ、郊外居住者である主人公が皮肉なしっぺ返しをくらうことになる。

 舞台はシェイディ・ヒルからプロクシマイア・マナーに変わる。タイトルにあるジャスティーナは、主人公モーゼスの妻の年老いた従姉妹である。80歳になろうとしていた彼女は、主人公の家に滞在しているあいだに亡くなってしまう。モーゼスは医師に連絡するが、モーゼスの家があるB地区ではジャスティーナの死亡証明書を書くことができないという。ここで土地利用規制法が浮かびあがってくる。2年前にそのB地区の屋敷を買った新しい住人が、そこを葬儀会社にしようとしたところが、異質なものが入り込むことに神経質な町の議会が、あわてて強引な条例をつくってしまった。その結果としてこのB地区では、葬儀場をつくれないばかりか、埋葬もできないし、死ぬこともできないことになっていたのだ。

 だからジャスティーナが間違いなく死亡していても、彼女をB地区から運び出すか、この法律に対する例外措置をこうじないかぎり、彼女は死んだことにはならない。これが主人公モーゼスへの皮肉なしっぺ返しだ。町長にかけあいに行ったモーゼスに、町長はこう語る。

 いいかね、もし議会のひとりでもこの法律に例外を認めたとしよう。そうしたら私は、いまここできみがガレージにサロンを開くことを許可することだって出来るんだ。ネオンをつけて楽団を雇い、それでわれわれがこれまで必死に守ってきたこの地域の人間関係はめちゃめちゃになる。変な奴が入ってくるし、地価だって下がる。

 唐突にこんなエピソードを目にしたら、現実離れした茶番劇のように思えるところだが、「世界には危険も問題もないという暗黙の了解で結束している」人々や水爆の不安を遠ざけようと秩序を守るのにやっきになる夫人のことを考えると、いかにもありそうな話に思えてくる。要するに、住人たちが自分たちの楽園から締め出したいものを突き詰めれば、それは死に対する不安や恐怖なのだ。そんな世界のなかに、突然、死を生々しく具体化し、象徴する葬儀場がつくられるということになれば、人々はヒステリックになることだろう。まさにひとつの屋敷、ひとりの住人の問題は、共同体全体の問題なのだ。

 この短編は、このエピソードだけでも郊外の土地利用規制法をめぐる皮肉なドラマとして興味深いが、チーヴァーはこのエピソードをさらに、閉鎖的な郊外よりももっとはるかに広い視野のなかに放り出してみせる。モーゼスは、彼の前に広がる世界を目にしながら、郊外から遠く隔たった過去、歴史に思いをはせる。

 私は、比喩的にいうと、はじめてアメリカ大陸に着いたピルグリム・ファーザーズのように、濡れた片足をプリマスの岩の上に乗せて立ち、彼らが見た、手ごわい、挑みかかるような荒野のかわりに、中途半端な文明の風景をじっくりと眺めているようなものだ。

 父が新しい世界を打ち立てようと旧大陸を捨てたのがつい昨日のことのように思われたにもかかわらず、私は魂から若々しい力が失せていくのを感じた。そして私はこの国を素晴らしい国と思わせた旧大陸のさまざまな過去を思ってみた。カラブリアという残酷な町と残酷な貴族、ダブリン北西部の荒地、ゲットー、独裁者、娼婦の家、パンを買うための行列、子どもたちの墓、耐えがたい飢え、堕落、絶望……いま高台の上に見えるかすかな柔らかい光は、そうしたものが生みだしたものなのだ。これはつまらないものに見えるかもしれないが、生活という民族大移動につながっているのだ。

 チーヴァーは、主人公モーゼスを通してアメリカの歴史をさかのぼり、その世界を見直すことによって、フロンティアの先端の部分に郊外の世界を置いてみる。郊外の世界を新しいフロンティアのようにも見ることができることはすでに書いたが、あの西部や都市に対する地理的、図式的な位置づけとチーヴァーの文章から浮かび上がるリアリティには、大きな開きがあるといわなければならない。人々は、自由や希望を求めて最終的に郊外の世界にたどり着いたのだが、そこははたして理想の楽園だったのだろうか。死んでも死んだことにはならないとは、何とも皮肉な“天国”の光景ではなかろうか。

 こんなふうに見てくると、郊外はその向こう側とか出口といったものが見当たらないフロンティアの行き止まりを思わせる。そして、出口がないだけに、人々は何かを切り開いていくのではなく、ささやかな土地から自分たちの理想と相容れないものを必死になってしめ出そうとするのだ。

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 チーヴァーはたくさんの短編以外に、決して数は多くないが、何本かの長編を発表している。この章の「変わりゆくアメリカの風景」というタイトルは、短編からそのイメージを感じとることもできないではないが、どちらかといえば長編の方を意識してつけたものである。チーヴァーは本質的には間違いなく短編の作家だと思うが、こうしてチーヴァーを掘り下げる章の最後に、彼の長編を取りあげるのは、作品の質を云々するというよりも、郊外をめぐる“変わりゆくアメリカの風景”が興味深いからである。

 ここで取りあげるのは、チーヴァーの最初の3本の長編、『ワップショット家の人びと』(57年)、『ワップショット家の醜聞』(64年)、『ブリット・パーク』(69年)である。1作目と2作目は、タイトルからもわかるように、物語につながりがある。『ブリット・パーク』は、登場人物など前2作と何ら関係がないが、後に触れるように「変わりゆく風景」というテーマで登場人物たちの世代を対比してみることができる。ここではそんなふうに、3本の長編を3世代にわたる物語として読んでみたいと思う。

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 『ワップショット家の人びと』は、変わりゆくアメリカの風景というテーマに則していえば、“消えゆくアメリカの風景”の物語である。舞台となるのは、マサチューセッツ州にあるセント・ボトルフスという田舎町、川沿いの古い港町だ。この町が人々で賑わっていたのは南北戦争があった1860年のことで、いまでは人口も減少し、独立記念日などには賑わいを取り戻すこともあるが、明らかに寂れつつある。主人公であるワップショット家の人々の祖先がこの町に住みついたのは17世紀のことだった。以来、一族はこの町に住みつづけ、現在にいたっている。

 この小説の主人公は、ここで取りあげる3本の長編を3世代の物語とみる場合には、1代目にあたる父親のリアンダー・ワップショットと、2代目になる息子のモウジスとカヴァリである。リアンダーは、川を往来するおんぼろ蒸気船の船長である。この小説では、物語の語り手が「私たちは今ここで大都市の文化生活を取り上げているのではなく、年々人口が減ってゆく古い港町での生活について語っている」というように、主に牧歌的な田舎町の生活風景が綴られていく。しかも、一族代々の生活を記録したリアンダーの手記なども盛り込まれ、過去や歴史が振り返られる。リアンダー自身が町とともに、歴史や失われるものを代表しているのだ。

 この小説が発表されたのは1957年のことだが、50年代に入って郊外に転居し、郊外を舞台にした短編を次々に発表してきたチーヴァーが、このような内容の長編を発表するのも頷けるような気がする。郊外を舞台にした短編の主人公たちは、ふとしたことから自分の過去や歴史を振り返ることになるが、チーヴァー自身もまた、郊外の生活のなかで自分の過去や歴史を振り返るようになったのではないだろうか。実際この小説には、チーヴァーの父親や叔父の日記をもとに書いた部分があるという。

 しかし物語が過去への郷愁だけで終わるわけではない。2代目にあたるモウジスとカヴァリは、田舎町の単調な生活を捨て、希望を胸にニューヨークやワシントンといった大都会に旅立っていく。そこで、このふたりが自分という個人をどのように位置づけているのかがわかる文章を引用しておこう。これは実は、2作目の『ワップショット家の醜聞』からの引用だが、ふたりの少年時代のことがこんなふうに綴られている。 ==> 3ページへ続く

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